80年代の光と影

原宏之『バブル文化論』(慶應義塾大学出版会)


昨日のレビューに書いた「蕎麦をすすりながら必死でゴージャスなアメリカン・スタンダードナンバーを練習する進駐軍クラブのバンドマン」のように、追いつけ追い越せアメリカ!とがんばり続け、日本はついに高度成長をとげた。


そして1980年代半ば、気がついたら世界は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」。日本は理想だったはずのアメリカをとうに追い抜いてしまっていた。ここから、消えたゴールを追い求める「差異化のゲーム」「流行の先端への逃走ゲーム」「トレンディの追求」が加速していった… 本書は「バブル文化」をこのように位置づけ、混沌と享楽の80年代を文化史的に検証していく。


だが当方は、なんというかその、ページをめくるたびに、酸味に満ちた自虐的な笑いがこみあげてくるのをおさえる事ができなかった。なにせ80年代と言えば当方にとっては、10代半ばから20代半ばの人格形成期にぴったり当てはまる時代。列挙される80年代のアイテムのほとんどは、今となっては実に恥ずかしい、この時代の記憶と分ちがたく結びついているのだから。


竹の子族。DCブランド。ハウスマヌカン。コピーライター。『ビックリハウス』。『ポパイ』が提唱する「プレッピー」とか「BCBG」とかいったボーイズ・ファッション。田中康夫とその文体(『お茶する』とか『ずぅっと』とか『…が気分。』とか…)。『愛しあってるかい?』『君の瞳をタイホする!』などの能天気ドラマ。『金曜日の妻たちへ』『男女7人夏物語』などの恋愛至上主義ドラマ。『THE MANZAI』と「ひょうきん」ブーム。週末ごとにオープンする「架空の惑星に不時着した宇宙船…」などのコンセプト型ディスコやレストラン。映画『ハスラー2』でブームになったプール・バー。カフェバー。サントリー・ペンギンズバー。……ううううう恥ずかしい恥ずかしい(恥ずかしさのあまり、本書に挙げられていないアイテムまで思い出してしまった)


恥ずかしいと言えば、景山民夫の何かのエッセイに、深夜の飲み屋で恥ずかしい話合戦を始めるエピソードがあったのを思い出す。「ド田舎から出てきてラーメン屋の『餃子』という文字が読めなかった男が、悩んだ末に『サメコ定食ひとつ』と注文してしまった」とかいったネタを披露しあう話。この「サメコ」話じたい、階層差別に基づく典型的な80年代ノリのジョークかもしれない。


本書にも挙げられている、80年代のベストセラー『金魂巻』(渡辺和博)が流行らせた「金/ビ(マルキンマルビ)」ってのも典型的な「差別型ジョーク」のキーワードだ。たとえば学者の場合。「マルキン」はドゥルーズを愛読し書いた思想書がベストセラーとなってマスコミにもてはやされる若き俊英。一方「マルビ」は女に振られてじめじめ研究に没頭する貧乏な大学院生。…このように収入の高低や、センスの良し悪しや、「ネアカ」か「ネクラ」かなどでキャラを階層化する差別思想(半分ジョーク、しかし半分は本気)が、この時代の特徴だった。


あるいは、ビストロやカフェバーやスキー場などのトレンディ・スポットで、世慣れた粋人を装うための姑息な方法を指南する『見栄講座』なんて本もあった。これを作ったホイチョイ・プロは業界人=業界通が売りだった(今も当時から変わらぬスタンスで『気まぐれコンセプト』を続けているのはスゴいよね)。TVの裏側を見せる事でヒットした『おニャン子クラブ』。「スタイリスト」だの「空間プロデューサー」だのといった「カタカナ職業」の人気。いわゆる「業界」ブーム。


パンピーとは違うのよ、と胸を張るその「業界人」も、しかし、住所が「港区」でなければ「マルビ」の烙印を押されてしまう。車は「品川」ナンバーでなければならない。当時は3ケタだった電話の市内局番は「4」始まり(主に港区)でなければならない。8とか9(練馬区や豊島区方面)じゃ恥ずかしくて名刺が刷れない…なんて話が、まことしやかにささやかれた。今じゃ携帯電話やメールアドレスが主な連絡先だったりするから、住所がどこだろうと誰も気にしないけど。

(1988年、都内23区の局番は3や5などから始まる4ケタに変わり、番号からは地域がわからなくなった)


要するに、今どきの「勝ち組/負け組」「上流/下流」といった階層化が、本人のセンスや努力にかかわらず収入や職業で自動的に決まってしまう部分が大きいのに対し、80年代の階層化は、まず「トレンド」情報をゲットし、きっちりそれに乗るという「ふるまい」の度合いが大きかったとは言えるだろう。


だが著者が指摘するのは結局のところ、こういった夢のような消費世界の「どうしようもない貧しさ」だ。


「就職売り手市場」とか「クリスマスは赤プリ」とか「彼女へのプレゼントはティファニーのリング」などといったトレンディ情報に愚直に従い、踊らされ、消費し続ける精神的な「貧しさ」。逆に、そもそもそこにノり切れなかった大多数の若者たちの現実的な「貧しさ」(実際『マルビ』な当方は、雑誌やTVでこういった情報を目にしては憧れのため息をついていたものだ)。こうしたバブル文化の「貧しさ」を象徴するドラマとして、著者は最後に『ふぞろいの林檎たち』を紹介している。




ところでバブルの裏の「貧しさ」と言えば、もう1冊。いましろたかし『初期のいましろたかし』(小学館)も、ぜひ読んでいただきたい。バブリーだったね、ひょうきんだったね、と、いつのまにか誰にとっても景気の良い時代だったように改竄されつつある80年代という時代が、しかしどうしようもなく「貧しかった」ことを骨身にしみて追体験させてくれる貴重なマンガだ。しょっぱい笑い。だが恥ずかしくはない!こちらは。