[日記]発病


ヤマを越えたところでダウン、という癖は一生なおらないのか? 体調こわしました。


止まらない咳。流れ続ける鼻水。喉が痛む。熱は全く出ないが発熱時のように全身がダルく痛い。「こんなに目が回るのに35度台(当方、平熱が低いのです)だなんて… 何かの奇病じゃないか、これは…?」と息も絶え絶えな当方に妻は一言「風邪でしょ」


昨年のうちにインフルエンザのワクチン打って、これで今シーズンはもう大丈夫!と、次々インフルに罹患する学生たちを尻目に意気揚々としてたのに。単なる風邪をひいてしまうとは釈然としないなあ!!!


しかも一家3人次々罹患して、今や共倒れ状態。老老介護とはこんな世界かと悪い冗談とばしながら看病し合うフラフラ夫婦フラフープ。あれ?何を言ってるのだ俺は。とにかく目もビキビキに痛むので、こうやってコンピュータのディスプレイ見てるのも非常に苦痛なのです。




しかしなんと時を同じくしてそのMacBookも修理に出すことに…!


これは別にAirが出たからヘソ曲げてダウンしたわけではなく(なぜか次の新製品が出る頃になると故障し始めるんだよなあ機械ってヤツは)ディスクドライヴがいよいよスロットローディングしなくなってしまったので、ちょっと仕事の手が空いているこの時期にとっとと交換修理に出してしまおうという腹である。


小心者の当方にとって、十数年におよぶMac生活を経てようやく身につけた習慣=「プロテクションプランには必ず入っておく」のおかげで費用の心配をしなくても良いのは、精神衛生上ひじょうに良い事である。


とは言えバックアップ作業だの、修理中に必要になりそうな書類のプリントアウトだの、やる事がたくさんあっておちおち休息もしてられない。またそういう時に限って今度はプリンターのインクがなくなる。こんな時に限って買い置きのインクも「その色だけ」切らしちまってるときた。テクノロジーの便利さを享受する現代生活の美しいイメージは畢竟、モグラ叩きのように潰しても潰しても潰しても現れる不具合いや不条理の連続という暗黒面によってかろうじて支えられている虚像にすぎないのであ、あれ?何を言ってるのだ俺は?風邪薬の大量服用によるめTこかFっHGRっっっっっっっ
















そんなわけでメールのレスポンスとか遅れる可能性あります。
しばらくビジネス関係の連絡は電話でよろしくお願いしますー


[日記]発病


ヤマを越えたところでダウン、という癖は一生なおらないのか? 体調こわしました。


止まらない咳。流れ続ける鼻水。喉が痛む。熱は全く出ないが発熱時のように全身がダルく痛い。「こんなに目が回るのに35度台(当方、平熱が低いのです)だなんて… 何かの奇病じゃないか、これは…?」と息も絶え絶えな当方に妻は一言「風邪でしょ」


昨年のうちにインフルエンザのワクチン打って、これで今シーズンはもう大丈夫!と、次々インフルに罹患する学生たちを尻目に意気揚々としてたのに。単なる風邪をひいてしまうとは釈然としないなあ!!!


しかも一家3人次々罹患して、今や共倒れ状態。老老介護とはこんな世界かと悪い冗談とばしながら看病し合うフラフラ夫婦フラフープ。あれ?何を言ってるのだ俺は。とにかく目もビキビキに痛むので、こうやってコンピュータのディスプレイ見てるのも非常に苦痛なのです。




しかしなんと時を同じくしてそのMacBookも修理に出すことに…!


これは別にAirが出たからヘソ曲げてダウンしたわけではなく(なぜか次の新製品が出る頃になると故障し始めるんだよなあ機械ってヤツは)ディスクドライヴがいよいよスロットローディングしなくなってしまったので、ちょっと仕事の手が空いているこの時期にとっとと交換修理に出してしまおうという腹である。


小心者の当方にとって、十数年におよぶMac生活を経てようやく身につけた習慣=「プロテクションプランには必ず入っておく」のおかげで費用の心配をしなくても良いのは、精神衛生上ひじょうに良い事である。


とは言えバックアップ作業だの、修理中に必要になりそうな書類のプリントアウトだの、やる事がたくさんあっておちおち休息もしてられない。またそういう時に限って今度はプリンターのインクがなくなる。こんな時に限って買い置きのインクも「その色だけ」切らしちまってるときた。テクノロジーの便利さを享受する現代生活の美しいイメージは畢竟、モグラ叩きのように潰しても潰しても潰しても現れる不具合いや不条理の連続という暗黒面によってかろうじて支えられている虚像にすぎないのであ、あれ?何を言ってるのだ俺は?風邪薬の大量服用によるめTこかFっHGRっっっっっっっ
















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ネット大学


いよいよ本当に今年度の最終授業日である。


まず2限「映像メディア論」は先月行った期末テストの「答え合わせ」。
試験問題は、今年の授業で扱った以下の3つのCMを観せて、授業で解説した共通点を答えさせるものであった。

[CM1]


[CM2]
http://http://www.youtube.com/watch?v=iYhCn0jf46U


[CM3]
http://http://www.youtube.com/watch?v=HwU2t3BJtiM&eurl=http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=2264

(答は下に↓)




















…正解は「どれもヴァイラル広告」でした!


あくまで「”授業で解説した”共通点」というところがミソ。無理矢理こじつけで共通点を「発明」しちゃっている人もいたりして解答用紙はなかなか面白い事になっていたが。今年度は授業内でしつこくヴァイラル広告の話してたので、ちゃんと出席してればピンと来たのではないかと思います。


しかし、これ、単に試験のためにひねり出した設問というわけではなくて、まさに2007年のCMシーンを端的に表現している(そしてこれからのシーンを予告している)のが、これら一連のヴァイラル広告ではないかと思うのだ。[2]のDOVE"EVOLUTION"なんて、カンヌでグランプリまで獲っちゃったわけだし。2008年もネット広告が世間を騒がすことはまず間違いないだろう。




で、午後のVACクラス。


今日は最後だから軽く1年の反省でもやってお開き…のつもりが、たまたま研究室をぶらついていた(←他のクラスの授業しに来てたのを拉致ったという噂あり)港千尋&佐々木成明の両氏を無理矢理ゲストスピーカーに迎え、さらにはなんと伊藤俊治客員教授まで乱入して教員5人による即席パネル・ディスカッションという豪華な番組が始まってしまった。


それというのも三橋くんがこんな映像を紹介してくれたからで↓


・バリ島のケチャ
http://http://www.youtube.com/watch?v=FTo0-r5OcWI&eurl=http://www.youtube.com/watch?v=FTo0-r5OcWI
・歌舞伎町ホストクラブのドンペリコール
http://http://www.youtube.com/watch?v=1T_ZRgKzuhE&eurl=http://www.youtube.com/watch?v=1T_ZRgKzuhE&feature=related
・モー娘。コンサート会場前のヲタ芸
http://http://www.youtube.com/watch?v=ub4L9bVjuP4&eurl=http://www.youtube.com/watch?v=ub4L9bVjuP4


これはもー素晴らしすぎる三題噺って事で、どうかじっくり見比べていただきたい。「男はなぜ徒党を組むのか?」という素朴な疑問から始まり、祝祭、陶酔、群衆、都市、情報 ……といった感じで、映像人類学トークはとどまるところを知らないのであった。完全に学生を置いてきぼりにした90分間(笑)しかし本当に今やYOU TUBEは教材の宝庫だね。大学2.0ってこういうことか?(←しかも死語)

ダンス・ノン・ストップ

WONO2008-01-10



年度末の今週は最終回が続きます。今日は通称「DMR」(ダンス・ミュージック・レコードではなくてダンス・ミュージック・リサーチの略です)ことデザイン論ゼミの最終回。学生からはクラブでのフィールドワークとストリートダンサーのアンケート調査という2件の発表あり。


最後の最後なので、メンバーに聞いてみた。
「ダンス(ミュージック)は何のためにあるのか?」と。


この1年間ディスコ開催したりフィールドワークやったりプロのDJまで招いたりしながら
考え続けてきた問いである。


答はまさに十人十色。「祝祭」「解放」「日常からの脱出」といった意見が多かったけれども。


当方が感じるのは「抑圧」との関係である。極端な例を挙げれば植民地時代の奴隷のダンスのように、差別や抑圧が強くて過酷な状況であればあるほど、ダンスが輝きを持つというのは一つの真実だと思われる。


あるいは、ウィークデイの肉体労働に従事する若者が週末だけはディスコでスターになる…という映画『サタデー・ナイト・フィーバー』を挙げても良い。黎明期のクラブシーンを築きあげたのが黒人やゲイなどマイノリティ層であったという歴史的事実を挙げても良い。


いつの時代もクラブのメイン客層は若者だが、それは金もなく将来も不明で悶々としている若い時代こそダンスを必要とするからではないのか。いやそもそも抑圧ゼロの人間なんて存在しないんだから、どんな人間だってダンスするのではないのか?


ま、この話は菊地成孔さんの「憂鬱と官能」論みたいなもので、ダンスに限ったことではないとも言える。そもそも音楽とは、アートとは、そういう存在なのかもしれない。人類はこれまで、差別、抑圧、ストレス、プレッシャー、憂鬱、悲哀……のようなネガティヴな感情を、美や官能や快楽のようなポジティヴなものに反転させることで、なんとか生きのびてきた。絶望の果てにすら残る小さいが強く輝く宝石のようなもの。それを人は「希望」と呼ぶ。

最終公演


音響構成論ゼミの最終課題コンサート。仕込みの昨日と同様、早朝から大学へ。学生たちの自主運営ライヴなので仕事と言っても現場に立ち会うだけなのだが、会場の鍵を開けたりする管理責任上、最初から最後までつきあわなくてはならないのだ。うう、眠い…。


基本的にはそれぞれがコツコツ音楽を制作するゼミなので、ライヴと言ってもその運営ノウハウを伝えたわけでも、演奏について指導したわけでもない。要するにシロウト。なのだが、動き始めると案外それぞれがそれっぽくイイ感じになってくるのはいつも感じるところ。理論的に研究を深めるのが大学の役割なのは無論だが、こうした「祭り」の場を提供するのもそれに負けず劣らず重要なのではないかと考える所以である。


クラス全員がスタッフとアーティストを兼任している上、どうせサウンドチェックやらリハやらで本番前まで昼食の暇もないだろうと思い、会場の隅にフランスパン、ハム、バターを用意してビストロサトル(過言)をオープン。これでワインがあれば完全にヨーロッパのフェスの楽屋といった感じだが、さすがにそれは(笑)コンビニ弁当やおにぎりを買い込むよりもスマートだしそれぞれが好きなだけ食べられるし、結果的に安上がりなのですこの方法は。


で、ライヴ本番。


DJあり、ラップトップ演奏あり、ラップトップと生楽器の合奏あり、フツーにロックなバンド演奏あり、中にはタンタントントンと包丁でリズムを刻みお料理のように音楽を作るチームもあったりエアギター演奏(?)もあったりと、ありていに言えば玉石混淆ながらバラエティに富んだ内容。最後にはまるで卒業式の担任教師よろしく花束贈呈までされてしまったよ。ありがとう皆さん!


もちろん終了後は打上げ。本番に輪をかけて盛り上がったのは言うまでもなく。

歌舞伎と江戸の音

WONO2008-01-07



夜、妻と歌舞伎座へ。初春大歌舞伎だ。


松竹梅をモチーフにした舞踊の『鶴寿千歳』、松の緑に紅白の鬘が目に鮮やかな『連獅子』、そして花魁たちの衣装をこれでもかと見せびらかす『助六由縁江戸桜』と、ビジュアル的にも絢爛豪華でまさに正月らしく目出たい演目が並ぶ。


とりわけ『連獅子』での松本幸四郎染五郎親子の競演には釘付け。なにしろダンサーとして超一流の印象を受けた。一朝一夕では到底身につくものではない「型」の美しさと、型を内側から破るエネルギーのバランスの良さ。伝統芸能ならではの凄み。


それにしても歌舞伎の音楽は面白い。雅楽能楽に比べてはるかに猥雑というかロック的なエネルギーに満ちている。また楽団自体が、オーケストラのようなコンダクションによって統率される組織になっていないところも魅力だ。


同時多発的に生起するメロディやビートが、たまたま重なり合わさったところ、結果として全体のサウンドが生まれていくような印象。つまりはヘテロフォニーなのだが、あらかじめ「楽曲」という概念があってそれをヘテロフォニーによって実現する…と目的論的に分析しようとすると見逃してしまうような何かが、そこにある気がする。


気になったので帰宅後、田中優子さんの『江戸の音』を引っぱり出して読み返してみた。


これはひとことで言えば、江戸時代の世俗音楽=ポップミュージックを軸に、日本人の音楽=音響的美意識について論考している本だ。たとえば次のような記述がある。

この三味線音楽は同じことのくりかえしでできているようでいて、少しずつ変わっており、それに従って前に進んでいる気でいると、いつの間にか元に戻っていているす。…これは表現しているというより、何かを示唆するだけで満足している音楽だ吉田秀和の文章からの引用)


結末を目指して構築していくソナタ形式のような西洋音楽の構造とは全くちがった方法論。いや「方法論」化される事を積極的に拒否するような音楽と言って良い。


著者はまた、音楽のみならず連歌連句といった文学の領域でも、同じような感覚がしばしば見受けられると述べている。

まるで繰り返しのようにみえても実は先に進んでいて、先に進んでいるのかなと思うと、どこかに曲がっていたり、その前がどこにあるのかわからない、これからどこに行くのかわからないけれども、とにかく歩いているみたいな歩き方


日本の「物語」の多くは、結末にたどり着くためにエピソードを垂直に積み上げていく西洋式の「物語」と全く違い、エピソードがぽんと投げ出されてはそれが回収されないまま次のエピソードへと水平移動していく。このことは、西洋の言葉は主語-目的語の関係が重要だが、日本語は形容詞が重要、といった言語構造上の違いとも関係するのかもしれない。


この本では後半、武満徹との対談の中で、さらに現代の音楽に通じる様々な論点も出てくる。

遠音(とおね)がいちばん綺麗だという考え方があるわけです。たとえば尺八などはなるべく遠音がいい、遠音を聴く、ということがあるわけです。[略] いちばん面白いのは、遠音の場合には、弱い音とか強い音という、いわゆる西洋音楽にとって非常に大事なダイナミック、フォルテとかピアノというのは、ほとんど意味をなさない。つまり、そこから聞こえてくるのは音色だけなんです(対談における武満の発言)


このように音色/音響を重視する姿勢。


あるいは先に挙げたような、非「構築」的な時間構造。


旋律、和声、リズムの絶対的な対応をあえて避け、ヘテロフォニーや偶発性の導入によって「中心」の発生を回避する音楽組織論。


……等々、どうやら江戸音楽には、我々が直面している音楽の袋小路を突破するヒントが、まだまだありそうだ。