やってみる自由

WONO2006-12-20


「演奏論ゼミ」(既に、公式名称『デザイン論ゼミ』からは想像もできない地平に展開してしまっている…)最終発表会。学生の企画による、学生が仕切る、学生が演るライヴコンサート。当方はとりあえずホールの鍵を開けたり照明つけたりする管理人のおじさんとして、朝10時から出勤。


今日のライヴは、しかし凄かったなー。フリーマーケットかプチ夢の島か。得体の知れない木材、廃材、金属、電機製品、紙、液体、生モノ……古着だの古雑誌だの冷蔵庫だのタンスだの自転車だのリヤカーだの電球だの蛍光灯だのありったけの燃えるゴミ燃えないゴミ生ゴミ粗大ゴミを集めてきてホールにぶちまけ、その中で使えるものを探しながら、何の打ち合わせも無しの完全即興で音を出していく…という「演奏」。これを「音楽」と呼んで良いのかどうか?というギリギリ感が、なんとも楽しかった。まさしく美大でなければできない企画。


年輩者としては、学生のやる事を見てると「ちょっとちょっと、それはこうやった方が…」と、つい口を出したくなるのだが、そこを黙って、彼らが自力で問題解決するまで待つ。これって、当方のような仕切りたがりの人間には結構ストレスだったりする。しかしみんな楽しそうだし、数ヶ月前に行った当方主導のコンサートよりもはるかに、自分から率先して動いているように見える。自分でやらなければ決して身につかない事はたくさんある。手痛い失敗に泣いて初めてわかる事もたくさんある。ということだ。


打上げの席で、ある学生は「何の"流れ"もなく散漫に各自が好き勝手やるだけの"演奏"で良いの?」といった疑義を呈していた。いいんじゃないの。演ってる人間にとって何か発見があれば。それが「こんな事じゃ全然面白くならねぇよ!」という発見だってかまわないではないか。お上は今「学校ではこういう事を教えなければならぬ…」というカチコチな規範を作り上げようとやっきになっているようだが、学校なんてこんなユルい感じで「時には失敗する自由」を得られる実験場であればそれで良いんじゃないのかね。


しかし撤収はハンパじゃなかった。散乱した木屑だのガラスの破片だの床にこびりついた生卵だの掃除が大変で最後はみんなで這いつくばって雑巾がけ。普通のコンサートなら30分で済む作業が2時間以上もかかっていた。今日最後の教訓。自由とはめんどくさいものでもあるのだ。