filmachine

妻子と一緒にYCAM山口情報芸術センター)まで、渋谷慶一郎作品『filmachine』を観に行く。やっぱこれからは立体音響しかないっしょ!(←モノラル礼賛の舌の根も乾かないうちに…)


この作品は、上中下3台×8チャンネル=都合24ヶのスピーカに囲まれた空間で音響を浴びるサウンドインスタレーション。いずれ記録物としてリリースされる可能性はあるだろうが、作者の意図どおりの立体音響をきちんと体験するには現場に来るしかない。というわけで、当方としては希有な事ながら、仕事でもないのに知らない土地に旅することになったわけだ。


しかし到着ゲートでもたもたしてたら、市内行きバスに乗り遅れた。「次のバスは?」とインフォメーション・デスクに訊くと、「1時間半後になります」との答。またそういう冗談を真顔で言う。え?本当にそれしか交通手段がないの?


閑散とした空港で子どもを1時間半遊ばせる気力体力知力もない我々は、やむをえず大枚はたいてタクシーにて街に向かうのであった。とほほほほ。


と、出ばなをくじかれた感のある山口詣でだが、初来館のYCAM、きれいです。ドメスティックな風景の中に忽然とそびえ立つ感じは、なんとなく仙台メディアテークにも近い印象だな。そして展示は入場無料!なんと太っ腹な。何度でも訪れてこういう作品を体験できる市民がうらやましい。(と、我が渋谷区の文化施設の貧弱さを恨む)


で、作品。


会場中央に設置されたポールの、白く光るスイッチを押すと最初のサウンドが炸裂する。そこから13分間、音の旅が始まる。前後左右を蠢き周回し唸り轟く音響の嵐。前方斜め上から落下しつつ近づく音塊が体の両脇を通って後方に飛び去る…というような、音の「斜めの動き」「ぐにゃぐにゃした曲線状の動き」が何重にも交錯する。要するにクセナキスの音群音楽、あれが10倍速で四方八方から押し寄せるような感じ。まさしく「音響流動体とも呼ぶべき、運動と速度を核とする高密度の音塊(久保田晃弘)」。妻に言わせると「これ、ジェットコースターね」。息子は爆音と暗闇に恐れをなして最初から泣き叫び戦線離脱(笑)。まあ無理もないか。


久保田さんの解説によると「立体音響を使用したサウンドインスタレーションのマスターピース」とのことだが、当方に言わせれば、これって「ライヴ」。インスタレーションと言い切るにはあまりにも「音楽」なのである。スタートからエンドまで13分ほどの時間を音響ドラマとして「構築」してみせる手管は、ほとんど交響曲のそれを思わせる。音楽が時間芸術であることを無視し、スタティックな素材として音響を用いる、よくある「サウンドインスタレーション」とは全く別次元の作品。


とは言え、無人の空間で自動演奏されるこの展示のどこが「ライヴ」なのか?


話は飛ぶが、「ライヴ」の意義が「演奏者がそこにいて今まさに演奏している」という意味でのリアリティから「演奏者(=作曲者)の意図する通りの音を正確に届ける」という意味でのリアリティへと更新されたという点で、記念的碑なイベントが2001年の池田亮司公演(@恵比寿ガーデンホール)だった。


それまでも薄々みんな気づいてはいた。コンピュータを用いる音楽にありがちな「何を操作してるんだかわかんないけどステージ上でとりあえず何かやってる」演奏者の絵ヅラの滑稽さに。そもそもコンピュータにはどのような「演奏」もプログラム可能であり、「その演奏者」でなければならない必然性は希薄だ。にもかかわらず、演奏=パフォーマンスがもたらす強力なアウラ(オーラ)こそがライヴの商品価値であるとする固定観念、言いかえれば古き良き時代のヴィルトゥオーゾ幻想を、そのまま無自覚に踏襲している「ラップトップ・ミュージシャン」は、いまだに少なくない。


しかしこの時のライヴは、聴衆の多くが期待したであろう「オーラをまとった演奏者」がついに最後まで登場せず、徹底して音と映像をみせるだけの、言ってみれば単なる「ビデオ上映会」だった(ただし映像音響ともにきわめて高品質な)。それは、ライヴの目的を「演奏家アウラの確認」ではなく、ひたすら「作者の意図した通りに(家庭用のオーディオや簡易なイヤフォンでは不可能な、超低音から超高音域の爆音再生を含む)作品を聴いてもらう場を設定すること」のみにフォーカスしたという、明白な宣言と考えて良いだろう。


ライヴをそのような場として捉えるなら、ステージに演奏者が登場する必要がないだけでなく、そもそも「ステージ」すら必要ない。演奏が1回限りの「ショー」として必要以上に神秘化される必要もない。その代わり聴取環境の整備には、きわめて精密な設計と設営が必要になるだろう。この『filmachine』は、そうした言わば「池田亮司以後のライヴ」の、最新ヴァージョンなのではないか。


実際のところ、ボタンを押すと再生が始まるとか、リスニングポジションを変えられるといった、一応は提示されている観客の参加性は、「インスタレーション」という体裁を整えるための意匠にすぎない。観客は作品に影響しない。結局のところ、あらかじめ決定された音響の渦に身を委ね、その時間体験に巻き込まれるほかない(その意味で妻の「ジェットコースター」という言葉はまさしく的を射た表現)。


正直、あらかじめ説明されているような、音組織の構成に複雑系理論モデルが寄与しているという話は、当方にはどうでも良い。それはクセナキスポアソン分布を使って音群を設計したとかケージが筮竹で偶発的な音を選んだといった話と同レベル。作家ってのは「結果」を出すのにあらゆる手管を使うものなので、評価されるべきはその手管ではなく「結果」の方である、というのが当方の立場。で結果はと言えば……確かにこんな音、聴いたことない。そのうえ先に述べたようにシンフォニックに、ドラマティックに「音楽」が展開されているのであるから、文句のつけようがない。ひところで言えば、かっこいい。


ただし、同じ理論によって設定されたというLED照明はいささか半端に感じられた。そもそも場内が明るすぎてLEDの筐体そのものが見えてしまうのは残念。観客の安全を確保するため、完全暗転にはできないのだろうけど。こうした光のプログラムや、リスニングポジションの自由さといった「音楽外の要素」なしで、純粋に音を聴かせるだけでも十分の強度を持つ作品ではないかと、個人的には思う。もちろん、そういう潔癖主義的なことを言い出すと逆に作品がつまらなくなるっていうのもよくある事なので、これは外野が口出しできる問題ではないのだが。