美と生命

伊藤俊治・佐々木成明 両氏との鼎談、非常に実りあるものであった。


当方に期待されていたのは、映像作品『唐草 その記憶の旅』の音楽をどのように制作したか…という裏話的なものだったのだと思うが、あえて具体的な話は全然せず、もっぱら、唐草から得たインスピレーションについて語る。


唐草は「パターン」ではなく「リズム」である


「これが唐草文様である」という決まったデザインが存在するわけではない。反復しながら増殖するディティールが無限に組み合わされて全体のテクスチュアを織りなす、その「システム」が唐草なのだ。という伊藤さんの指摘は、たとえばインドネシアガムランのように、あるいはスティーヴ・ライヒのミニマルミュージックのように、ばらばらの細かいモティーフが同時に演奏されるとき実際には鳴っていないモアレ上の音像が浮かび上がってくる、そんな種類の音楽システムを連想させる。


それは、1本の線として筆記できる「メロディ」や単純に反復される「パターン」ではなく、ばらばらに走る複数の線が、空間上で(=聴くものの脳内で)結ばれることによって浮かび上がる、万華鏡のようなサウンド。唐草とは、静止した図像ではなく、永遠に走り続ける無窮動の「音楽」なのではないか。


鼎談の中で伊藤さんからは「唐草に人が感じる“目眩”とはいったい何なのか」という疑問が投げかけられた。当方の考えは、超速にして無限のこうした運動が、一つの静止した画像に封じ込められてしまっている、そのことがめくるめく幻惑感を与えてくれるのではないかということ。ちなみに佐々木さんの答えは、唐草が背負う広大な“歴史”そのもののもたらす目眩ではないか、というスケールの大きなものであった。


唐草は「ローカル」であるからこそ「普遍」である


起源のエジプトから東西世界に広く伝播しつつ、同時多発的に発生したとも見られる唐草。そこには生まれた場所ゆかりの「地域色」がまぎれもなく刻みこまれているが、同時に、数千年の歴史を経る中でデザインとして洗練される過程で、その「ローカル」性はどんどん希薄になり、普遍的な植物紋様に純化されていった。それゆえに、一見いかほど抽象的にみえようとも、唐草文様のリズムには「無数の記憶がざわめいている」ように感じられるのかもしれない。


当方が実例として流したのは、アフリカのドラム合奏、南太平洋の割れ太鼓、南米のサンバ。地域的には遠く離れたこれらの「ローカルな」音楽は、しかし人類共通のグルーヴとしか言いようがないよく近たリズム因子で成立している。さらには現代のテクノ/電子音楽の中にも、電子テクノロジーによって抽象化されたそれら「無数の記憶のざわめき」は脈々と息づいているのではないか。それは、コンピュータプログラムを用いることで発生させられる人工生命のプロセスに、どこか似ている。


「美」は生命のアンテナ


そしてこの日、最も考えさせられたのは、伊藤さん最後の発言であった。「そのように歴史を背負い、抽象化され、紋様化してきた唐草というものに、なぜ我々は“美”を感じるのか。別の言い方をすれば人間が持つ“美”という感受性は、生命のプロセスやシステムを体現する存在に反応するようできているのではないか…」


つまり美とは生命の持つアンテナであるということか。美意識には、炭坑のカナリアのように、生命への警鐘を果たす重要な機能があるわけだ。つまり美に対する感受性の欠けた人間とは、生命に対して鈍感な人間であるということ? ま、これは敷衍しすぎかもしれませんが。アナロジーとしても実に興味深い話、ですね。