唐草…奥が深い

明日のトークの参考として、事務局からこの本を送っていただいた。

伊藤俊治「唐草抄 装飾文様生命誌」(牛若丸/2005)


随所に興味深い指摘が。

唐草は厳格に限定されたパターンを同一に生み出しているわけではなく、リズムを生成させようとしているといえるだろう。[略] リズムの本質とは均一性と新しいものの接合であり、だからこそさまざまな部分が細部の新奇さから生じるコントラストを示している時でも、全体はパターンの同一性を失うことはない。[略] 唐草は多くの要素から構成され、それぞれの要素は実は全体を包括し、コントロールしている。部分と全体の間にはフィードバック・ループのようなものが存在し、互いに制御しあい、状況や環境に応じて融通性のある自己組織化がおこなわれてゆくのだ。(p.10-12)


どうです。まるである種の音楽について語っているようではありませんか。

唐草は人類がその永い歴史のなかで生みだし、外部から移入し、また外部へ送りだし、必要に応じ変化させながら守り続けてきた文化の遺伝子である。[略] このことは生命現象を支配する基本原理を抽出し、それをコンピュータにより再創造することで生命の本質を理解しようとする近年の人工生命のような科学と密接にむすびついている。そしてこの人工生命による植物成長こそ“未来の唐草”という文脈のなかでとらえうるのではないだろうか。(p.244)


唐草っていう草があるわけじゃなくて、言わば理想の植物、無限の植物として、抽象化の果てに創作されたものが、「唐草」。しかも特定の芸術家によってではなく、様々な土地に伝播されながら、長い年月の間に、多くの無名の職人たちの手によって、それがなされていったというプロセスが、面白い。

唐草は果てしない過去とさまざまな地域や民族の、想像もつかない多くの経験を通じて受け継がれてきたものであり、その文様のリズムには無数の記憶がざわめいている。[略] さまざまな唐草の形、色、リズム、パターン、趣き、気配などの記憶が多くの人々に共有されてしまいこまれていて、何かのきっかけでそれらの潜在するものが一挙に浮上してくる。(p.256)


壮大な唐草の歴史とストーリーに思いをはせる時、「音楽家としていかに独自のユニークな表現を確立するか?」なんて小っちぇえエゴにとらわれてばかりな自分の殻から、少しは自由になれるかもしれない。


明日のトーク、楽しみです。