夏から秋にかけての短編

『夏から秋にかけての短編』片岡義男


レイト'80sからアーリ−'90sにかけての片岡義男の量産ぶりは半端ではない。赤い背表紙の角川文庫だけで80冊(!)ほどの短編中編長編がある。それらは男女の洒脱な恋愛を描く「シティ派小説」の代表格とされていた。


しかし、異様に短く読みやすいセンテンス、そして文中に頻出する缶ビールやバイクやフローリングのマンションなどのいかにも80s的なアイテムゆえに、片岡の愛読者であると告白するのには「オシャレな都会のライフスタイルに憧れるイナカ者」と揶揄される危険がつきまとった。実際、当方に関して言えばまさにその通りだった。


なにせ当時は「ネオアカ」大流行の時代でもある。浅田彰ドゥルーズガタリを小脇に抱えるのがオシャレとされた時代。大げさかもしれないが、片岡義男は、部屋でひっそり隠れて耽るべき「禁書」であった。少なくとも当方にとっては。


しかし、あらためて読みかえすと「シティ派」小説と呼ばれたわりには、東京などの大都会が舞台になっている作品が案外すくないことに気がつく。


島、海岸、高原、避暑地、地方都市のビジネスホテル、郊外のマンション、そして高速道路、湾岸道路、ハイウェイ… それらは、冷たく近代的な都会生活の反証としての暖かく懐かしい田舎などではなく、むしろ、たとえば「イージーライダー」だの「パリ、テキサス」だのといったニューシネマやロードムービー、あるいはロバート・フランクの写真集などに見られる、どうしようもなく淋しく冷え冷えとしたアメリカの田舎の風景に近い、ぽっかりと空虚な場所としてしばしば現れる。


片岡の描くこのような風景は、たとえば後の98年にホンマタカシが発表した写真集「東京郊外 TOKYO SUBURBIA」では現実の写真として見ることができる。


いや要するに、新幹線や高速道路で旅をすれば今や誰の目にも明らかな、ラブホテルとカラオケボックスとパチンコ屋とコンビ二だけが延々と続く均質な日本の郊外風景を、先取りしたものであったのかもしれない。もちろん小説に描かれた風景は、そうした現実の(描かれた時点では『未来の』)風景に比べれば、ほとんど美化と言って良いほど洗練されたものではあったが。


登場人物の多くは、そうした空間を「移動する人」だ。


物理的に自動車や単車で移動する人であったり、恋愛や結婚などの人間関係の中を移動する人であったりする(離婚や別れは、片岡の小説に実に頻繁に出てくるモチーフだ)。とはいえ通常の「物語」であれば掘り下げられるはずの、移動にまつわる事情や人物の内面が深く描写される事はほとんどなく、背景や道具の細部と、人物のアクションだけが、淡々と説明されていくのが片岡小説の流儀だ。


という意味では、ヘミングウェイからチャンドラーに至るハードボイルド小説の系譜に連なるものと考えることもできる。(ただし、そこで起こる事件は「戦い」や「犯罪」ではなく、主に「恋愛」なのだが)


断片的なセンテンスの客観描写の連続によって人物の内面を読者に想像させるハードボイルドという文体は、映画で言えば、短いカットの連続でシーンに意味をもたせる「モンタージュ」技法に近い。


ヘミングウェイら「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれる作家たちが、戦争の悲惨や過酷な現実を前に、内面を主観的に語る空虚さに絶望したあげく到達したこの文体を、高度経済成長という一種の苛烈な「戦争」によって日本のあらゆる文化が徹底的に変貌していった80年代の日本で、日常生活や恋愛感情を描く技法として片岡が選択したことの意味は、小さくない。


「夏から秋にかけての短編」には、「雨の柴又慕情」という作品が収録されている。


避暑地のホテルに集まった男女が、午後の静かな時間を過ごす一つの方法として、ホテルに備えられていたビデオの中から「寅さん」映画を選んで鑑賞し、それについて語り合う、という趣向で書かれたこの「小説」は、通常の意味での物語としての展開は全くせず、会話のかたちをとった「日本論」ないし「日本語論」に終始する。


寅さんの行動や言葉や存在の意味が、日本と日本語の共同体空間の中に位置づけられていく様子は、きわめてロジカルでスリリングなものだ。片岡が近年「日本語の外へ」などの著書の中で展開している日本(語)分析/社会批評のスタンスは、既にこの作品にもあらわれている。たとえばこのような文章がある。

小津は日本的だ、彼の映画にこそ当の日本がある、とよく人は言いますけれど、彼は日本的なものを突き離してますでしょう。日本的でしかあり得ないような人に、小津は日本だなんて言ってほしくないの。戦後の日本人が、へらへら笑いながらみんなこぞっていっせいに捨てたものが、小津の世界よ。自分たちが、いかに、そしてどれだけ、捨てたかを認識しなおすためにこそ、小津の映画は価値があるのだと思うの。


片岡義男が小説を量産し続けた時期は、完全にいわゆる「バブル」時代に当てはまる。しかし上の部分からもわかる通り、彼が描こうとしたのは、バブリーな男女の軽妙で洒脱な恋愛ストーリーなどでは決してなく、むしろ、経済成長によって大きく変化した日本の社会、要するに、共同体が完全に崩壊し都市も田舎も全てが均質になっていく中で、変容せざるをえない人間関係、そして自立した「個人」とは何か、いや日本人は「自立」できるのか、という問題だったと思われる。


このようにバブル以降の日本をクールに予言するものであった片岡の作品群と、同時期の作家たちが「へらへら笑いながらみんなこぞっていっせいに」書き飛ばしていたようなバブル依存型・シティ派・恋愛小説群との「温度差」は、今よみかえすと本当に大きなものだ。


このところ靖国改憲だ愛国だとキナ臭くなってきたこの「日本」の、正体とは何なのかを考える上でも、いや、そんな事はともかく、夏を涼しく過ごすためだけでもいい、缶ビール片手に、片岡義男を読んでみてはどうだろう。