マイルスデイビス自叙伝

『マイルス・デイビス自叙伝』
マイルス・ディビス+クインシー・トループ著


文芸として優れている美しい書物が良書なのではなく、読者たる自分を熱く刺激し、仕事に向かわざるをえない高揚感、時には焦燥感さえ与えてくれるような本こそ良書である。という私的な基準に照らし合わせれば、酒や麻薬やセックスや嘘といった、今となっては「古き良き」悪徳にどれほど彩られていようと、本書こそは間違いなく良書。もう一つの条件、「再読のたびに新しい発見がある」という点も軽くクリアしているこの本を、ベッドに寝ころんでだらだら読み直す。


「先輩トランぺッターのディジー・ガレスピーがハイ・トーンを吹きまくるタイプだから、自分は音数少なめに“間”を生かしたプレイで目立とうとした…」などというエピソードからもわかるように、マイルス・ディビスという人物は、「奔放な天才」というパブリック・イメージとは真逆に、徹底的に理詰めで考え抜き、合理的な練習と勉強を積み上げる勤勉な人物だったと思われる。


周りに集まるバード、コルトレーン、ジミヘンといった「天才」ジャズメンたちが次々にドラッグで自滅していく中、一時は最底辺のジャンキーな隠遁生活に身を落としながらも再度カムバックする事ができたのは、彼が「天才」などではなく、ごく真っ当な努力家であった事を証明している(それ以上に、よほど体力にも恵まれていたのだと思うが…)。


マイルスの作品は常に「実験作」であった。熱くハードなバップ全盛の時代に、意図的に表現を抑制したクールなサウンドを試みる。人々がクールなモダン・ジャズに酔いしれている時代に、熱くサイケなファンクを試みる。ブランク後のカムバック作はジャズ・ファンの期待を完璧に裏切るヒップホップ・チューン。そのたびにリスナーは「あんなのマイルスじゃないよ」「マイルスも終わったな」などとブーイングした。


実際、本当に新しい音ってのはブーイングされて当然だ。なにしろ誰も聴いたことがない音なのだから。「何それ?」「こんなもの音楽じゃない」と白眼視され、笑われ、無視されても仕方ない。そんな中で自信を持って音をつくり続ける事は、もちろん難しいに決まっている。しかしもっと難しいのは、そうやってようやく立場を確保したその後で、人々が絶賛してもっと聴かせろ見せろと要求する「成功した実験」を放棄し、次の新しい実験を始めていく事だ。


斬新な事をうまく軌道に乗せて脚光を浴びたら、それを拡大再生産していけば“合理的”に認められて儲ける事ができるのが、資本主義社会における「成功」の基本だ。しかし、それを拒否することによってこそ「成功」したマイルスの強さ、というより非合理なまでの強情さには、既に述べたように彼がずばぬけて合理的な人物なのだと知っているからこそ、感動を禁じ得ない。