ケージそして台風な夜


台風。気圧の低さが人の心をざわざわさせる、その何とも言えない感じは相米慎二監督の名作『台風クラブ』で描き切られているのでここでは触れないが(と触れてみる)そんな夜にも関わらずサントリーホールは大勢の観客で溢れているのであった。台風だろうがクーデターだろうが聴きにくるのだ、この人たちは。逆に言えばどんなに天気が良くても絶対にこういう催しに来ない人種もいるってことの裏返しか。


CD発売日の選定などで「あー、×月は◯◯◯(メジャーアーティスト)の新譜も出るし、もう1ヶ月遅らせよましょう」などとディレクターが発言したりするわけだが、なんのことはない、どんなメジャーアーティストとバッティングしようと、買ってくれる人は買ってくれるし、「今月は◯◯◯が出たから、そっち買おうっと!」と流れるような客層は、どのみち当方のCDなど買ってくれるわけがないのだ。つまり実際のところ流通におけるセグメンテーションはもはやシャレにならないぐらい固定化してしまっている、という話と、これはどこか似ている。


そんな事はどうでもいいが。こんな暴風雨の夜に赤坂までタクシー飛ばしたのは、盟友アリマが出演し、旧友(と言って良いだろうな)足立くんが演出家を務める公演「ジョン・ケージ”ユーロペラ5”」を観るためなのであった。


舞台裏で流れる古くさいジャズ。オペラ歌手がわざとらしく歌い出すビゼーのアリア。古い蓄音機で流れる歌舞伎らしき音楽…ポツリポツリと気まずい沈黙をはさんで流れるそういった音響を、これは何あれは何とフォーカスしながら聴くうち、次第に思考は鈍眞し、これが何でも、あれが何でも、どうでもよくなってくる。


思考はホールを離れ、リミックスと引用の違い。チャンスオペレーションとカットアップの違い。作為と偶然の違い…などなど薄暗い灯りの中でボーッと考えていたら、突然バッ!とブラックアウトして、気がつくとちょうど1時間の上演時間が終わったところだった。これは、説明や譜面を読んだり、話として聞くだけではダメだ。退屈であり豊穣でもある、この「体験」の実時間をそっくりそのまま味わうほかには伝達不可能な種類の「混沌」が、ここにはあるのだから。


話は変わるが、以前ある場所での茂木健一郎さんと高橋悠治さんの対談の録音をネット経由で聞き、とても印象に残った場面がある。


科学者の茂木氏が「…というのはどういう事なんでしょうね?」と話を振った時、高橋氏が「問いには必ず答えがあると思っているんですか?」と逆に問い返し、「いや、困ったなー、そういうふうに言われると…」と茂木氏が絶句してしまった瞬間だ。


この記録には「え…?」と戸惑う場内の空気も見事に録音されていた。前衛作曲家特有のポーズ、斜にかまえて難癖つけてるだけ、と受け止める観客もいたのではないかと想像する。だが当方にはむしろ、シンポジウムや対談につきまとう予定調和(お決まりの『もとより結論の出る問題ではありませんし時間ですのでこの辺で…』みたいな司会者の世慣れた決め台詞を含めて)をクールに突き放す奇妙な爽やかさが感じられた。


実際のところ、これほどの「正論」はないのではないか。世の中「答え」のない「問い」なんて本当はいくらでもある。しかし「それを言っちゃおしまいよ」「屁理屈はともかく」「そんなアナタ、固いこと言わないで、とりあえず答えておきましょうや」と思考を凍結させてその場をやりすごす、それが大人の知恵って事になってしまう場面もまた多い。


ケージの作品すべてに共通するのは、そういった「とりあえずの答え」に逃げこもうとする人間心理の、その「逃げ場」を奪う策略だと思う。有名な無音の音楽「4分33秒」にしても、「なぜ演奏者は演奏しない?」「あ、そうか、楽器の音がぜんぜん鳴っていない今この空間の音を聴けってことか?」などと勝手に「答え」を見つけてしまう観客は、むしろ不幸なのではないか。「答え」がないその状態を、そのまままるごと味わって、何が悪いのか。


解説文やら記録やらで、その「趣向」を知ってはいても、今日初めて出くわしたみたいな態度でポカーンと、答えも解釈も求めず単にその体験を受け入れる事ができるかどうか。要するに「馬鹿」になれるかどうかで、ケージの音楽がどう聴こえるかは、かなり変わる。これは初期のピアノ曲から後期のナンバーピースに至るまで、一貫した特徴だ。


「馬鹿になる」というと言葉は悪いが、仏教だの武道といった東洋思想では「己を捨て、万事をそのまま受け入れる」というのは、むしろ普遍的な考え方だ。ケージも東洋思想をふまえて彼の作曲思想を深化させていったという。


そう言えば当方が初めて、なるほどそういう事か…と、この「馬鹿になった方が楽しい感」を体験したのは、ずいぶんと前。茶道をたしなむ友人の前田くんから茶席に招待された時だ。


「茶道」と言うと、どうも座り方がどうの茶碗の持ち方がどうのといった厳しい「礼儀作法」ばかりが取り沙汰される印象があるが、いやぁそんなの別に良いんですよ、とド素人の当方を安心させてくれたのが前田くんだ。「美味いと思って、茶を飲む。それだけに専心するための仕組みにすぎないんです」と。


茶を飲む。そんなのフツーに家でいつも飲んでるよ、なんて反論したって、その「飲んでるつもり」が、どれだけちゃんと「茶を飲んでいる」かって話だ。喉が乾いたからとりあえず飲む。世間話の合間に飲む。TV観ながら飲む。…そういった「茶でなくても成立するような飲み方」じゃなくて、本当に、心底お茶が飲みたいと思ってただただお茶を飲む。「馬鹿」になって。


しかし、そういった時間や空間を持つのは、日常生活の中ではやはり難しいわけで。茶室、茶席、作法といったセッティングは、要するに「馬鹿」になりきれない人間をいやがうえにも「馬鹿」にするための、道具立てにすぎない、と前田くんは力説していた。


で、ケージの音楽というのも、我々東洋人以上に「馬鹿」になりきれない西洋人を、なんとか「馬鹿」にさせようという工夫のあれこれではないかと思うわけだ。それは決して、偶然の要素を並べてハイどうぞと放り出したような、乱暴な代物ではない。むしろ周到な計略すら感じられる。


茶道の宗匠千利休にはこんな逸話がある。利休の庭に咲く花の評判を聞きつけ、豊臣秀吉が茶室を訪ねる事になった。その日、利休は庭の花全てを刈り取ってしまった。現れた秀吉は一つも花のない庭に首をかしげながら利休の茶室に入った。すると茶室の花入れにだけは、無造作に一輪の花が投げ込まれてあった…


ものすごくあざとい話なのは確かだ。しかし「偶然性」だの「無音」だのといったケージの作風には、どこか、この話の利休にも似たあざとさが感じられはしないだろうか。計算ずくの演出によって、観客がきちんと「馬鹿」になれるような、巧妙な環境設定。


まあ当方などは、全く違う意味で馬鹿度の高い人生を送っている(よく物を失くすとか…)ので、逆にケージの音楽をあまり必要としなかったりもするが… こうやって、たまには上演にかけつけてみるとやはり色々と考えることはあって、これはこれで良いものであるなあ。




ところで、それとは別の現世利益としては、こういった演奏会に来てみると普段会えない人や旧友に会えるのも楽しい。アリマや足立くん以外にも、沼野くんとか鶴見さんとかピラミさんとかいった、ずいぶん御無沙汰しているクラシック畑(か?)の人々と会えた。


渋谷慶一郎夫妻も来てたので、台風のせいで超絶な長さになってたタクシー行列に一緒に並んでずーっと馬鹿話。彼のウェブログにはいつも「ここには書けない話で盛り上がる」と記されているのでファンの人とかはどんな話だ一体?とか思ってるに違いないが、実際のところこのジャーナルにも書けません(笑)主に名誉毀損とか名誉毀損とか名誉毀損とか、あと人道上の理由が半分ぐらい(笑)毒吐き笑いすぎて精神的デトックスって感じだな彼との世間話は。