アメリカの光と影


映像論では『俺たちに明日はない』についての講義。


『ゲッタウェイ』とか『ワイルド・アット・ハート』とか『テルマ&ルイーズ』とか『ナチュラル・ボーン・キラーズ』とか『鮫肌男と桃尻女』とかいった「ピカレスクカップルのロードムービー」系映画(最後のはマンガだけど。あとテルマ&ルイーズは女どうしだけどカップルと呼んでさしつかえないと思う)の、この映画は聖なるプロトタイプと言って良い。


こんなのただの強盗殺人犯じゃねぇか、と言い捨てる事ができない映画的魅力を支えているのは、やはりウォーレン・ベイティの子どものような笑顔とフェイ・ダナウェイのクールなたたずまいの、絶妙な組み合わせ。そして映画史に残るラストシーンの「死の舞踏」は何度観てもやっぱり衝撃的。道/森/はばたく鳥/2人の顔のアップ/銃撃/死体を眺める保安官たち/そこでパッと暗転…というあの編集のリズム。完璧!


と盛り上がってばかりいても講義にならないので、1920-30年代アメリカの光と影について話す。


この物語(というか実際に30年代のアメリカに存在した、ボニーとクライドの実話)とは、要するに1929年のブラック・マンデーをはさんだ20年代の「空前のバブル景気」から30年代の「未曾有の経済恐慌」への大転換期を象徴する「神話」なのだ、という話。


たとえば大量生産&大量消費なモータリゼーションの普及(映画では自動車がほとんど準主役と言って良いほど全編に登場。実際のボニーとクライドも当時の新車フォードで逃げ回っていた)や、大衆の世論を誘導する巨大メディアの出現(2人の逃避行を全国的な話題として盛り上げたのは当時の先端メディア『新聞』であった)は、まさしくこの時代を象徴する出来事。


また、州境を越えて逃亡をくりかえす2人がなかなか捕まらなかったのは、この時代がまだ、州ごとの独立性が高い時代であったからだ。その後はたとえば、州を越える犯罪を捜査するFBIのような組織ができ、アメリカは着々と近代的な統一国家になっていった。


つまりボニーとクライドの死は、20年代の「リッチで理想的なアメリカ」の死であったと同時に、カウボーイ的な独立独歩の個人が西部を開拓する「古き良き時代」の死でもあったのだ。映画の全編に溢れる哀愁は、単なる懐古趣味である以上に、そうした時代へのノスタルジーと解釈できる。


そう考えると、なぜこの映画が(特に若者たちの)圧倒的な支持を得たのかがわかる。映画の公開当時、アメリカはベトナム戦争という、まさしく国家や政治の力が「独立独歩の個人」を圧殺していく現実の、のっぴきならない渦中にあったからだ。


(うーん、やっぱり歴史の授業になっちまうなー…)