戦争レクイエム

WONO2007-03-17



今日は神奈川県民ホールで、公私ともに付き合いの長い佐々木成明さん(通称アニキ)が映像を担当した『戦争レクイエム』の演奏会。


今回は、たいへん嬉しいことにホール上階でベビーシッターサービスがあるというので、妻子連れの3人で出かけたのだ。子どもを預けて夫婦2人で何か演目を観覧するなんて、ひょっとしたら息子の誕生以来、始めてかもしれないな?映画館でも展覧会場でもこういうサービスが頻繁にあれば、もっとあちこち出かけられるのになあ。


それはさておき。


たいへん面白い体験でした。恥ずかしながら、ブリテンといえば音楽の教科書に必ず載ってる『青少年のための管弦楽入門』ぐらいしか聴いてなかった当方にとって、名のみ知るこの大古典を聴く、またとない機会。(プログラムに収録された片山杜秀氏の文章が、作曲の背景から各楽章の音楽分析まできわめて明快かつコンパクトに解説したもので、たいへん勉強になりました)


レクイエムってのは西洋音楽の伝統の中でもきわめつけな「お約束」のフォーマットなわけです。そのお約束をあえて破り、歌詞として通常使われる祈祷文だけでなく、第一次大戦で戦死した詩人の詩がところどころ挿入される。詞だけでなく、「大オケ/小アンサンブル」「合唱/独唱」「男声/女声」といった音色編成上でも「対比」の構成は一貫している。それが「生/死」「神/人間」「戦争/平和」「理想/現実」…といった様々な対立項を表現するためにブリテンがとった戦略のようだ。


こうした対比の構造を、佐々木さんの映像は「抽象的な同心円のモチーフ/火や星などの具象的なモチーフ」「100年前の欧州の戦場/現在の東京の風景」「兵士/骸骨」といった被写体の対比によって端的に表現していた。さらに「天上から俯瞰する冷ややかな映像/地べたを這いつくばる戦争の惨禍」といった「カメラ(視線)の違い」によって、神と人間の視線を描きわけていたのはさすが。しかしまあ90分にわたる大作をビジュアライズするのは、さぞ体力のいる仕事だったと思います(この直後、高熱を出して寝込んだと聞きました。さもありなん…)


ところで、聴いていて強く感じたのは、個人を押し潰す戦争の非人間性を訴えるこの作品が、オーケストラや合唱という、まるで軍隊のように統率された組織によって演奏されることの皮肉であった。


指揮者のタクトのもと、機能ごとに分業化した楽器群が、それぞれ割り振られた役割を粛々とこなす様子。「西洋近代音楽=クラシック」という枠の中にいる限りはもちろん実に感動的な光景だが、その枠からひょいと外に出て醒めた目で眺めれば、まるで工場や会社や学校や軍隊のような「機械装置」に見えてくる。軍隊が戦争機械なら、オーケストラは音楽機械か?


だが、さすがブリテン。そうした「機械」や「集団」の論理に、「個人」が対抗する図式をつくっている。この曲では小アンサンブルがオーケストラ演奏の合間に挿入され、対比の効果を上げるよう設計されている。もっとも、そのアンサンブル部分も結局はオーケストラと同じ語法(部分要素の組み合わせによって全体構造が成立するような構造 ー 逆に言えば、部分や個人の演奏はあくまで全体を成立させるための部品として存在する)で書かれてはいるのだが。


もし当方がこの曲をリメイクするなら、このアンサンブルの部分は思いきり非クラシック的な語法(たとえばフリーミュージックやゲームピースのような)で作り、戦争機械としてのオーケストラとの対比をきわだたせる。あるいはいっそ小アンサンブルはノートパソコンや電子楽器だけで組織し、プレイヤーそれぞれの判断でゲリラ的に演奏を撹乱する役割を与えるとか。指揮者に統率されたオケがメジャー資本や大マスコミやオールド・メディアの象徴で、このゲリラアンサンブルがインディーズ・メディアやブロガーといった個人表現者の象徴…か?


いずれにしても、たとえば「西洋近代音楽」のようなただ一つのイデオロギーを無意識に全面採用したまま「戦争がいかに非人間的か」訴えたところで、今日の戦争ないし世界のリアリティを表現することなどできるはずがない。アメリカとイラクパレスチナイスラエル、どんな戦争を見ても、たった一つの正義など存在しないのだから。音楽も、ありとあらゆる全く噛み合わない視点や手法や構造を並置し対立させクラッシュさせる不条理なものであって良いのではないか?我々がいつのまにか加担している本当にリアルな戦争について表現しようとするのならば…


…などと、とりとめもない事をじっくり考えさせてくれるんだから、やはり古典ってのは良いものだ。チャンスをくれたアニキに感謝!