人生仕方ばなし

WONO2007-02-24



鈴木晰也『人生仕方ばなし―衣笠貞之助とその時代』(ワイズ出版)


『狂った一頁』リサーチを続けてます。


本書は衣笠監督の評伝。著者は長きにわたり製作方として日本映画の現場に携わった人物。これは衣笠個人の経歴であると同時に、日本の大衆芸能が芝居から活動写真そしてトーキー映画へと移り変わっていく様子の生々しい年代記でもある。


衣笠が生まれた1896年(明治29年)は、奇しくも日本で初めて映画の上映が行われた年。とは言え世の中の娯楽はまだまだ「芝居」の時代であった。芝居狂の衣笠少年は18歳で家出して旅回りの一座に加わる。そこを抜け出しまた別の一座に入る……そんな流浪を繰り返し、苦労の末に女形俳優として日活向島映画へ入社するのが1917年。


当時は芝居でも映画でも、ちょうど現代の歌舞伎のように、男が女を演じるのが当然だった。女優という職業も、その訓練方法も、まだ確立していなかったのだ。また、芝居を上演している途中に活動写真でアクションシーンを見せ、その続きを再び舞台で芝居する「連鎖劇」と呼ばれる手法が流行したという。女形として連鎖劇で活躍していた衣笠が、そのまま映画俳優になったのは言わば時代の必然だった。やがて衣笠は女形俳優兼監督、さらには時代劇人情劇を得意とする職人監督として、活躍の場を広げていく。


そして1926年。衣笠30歳の年に『狂った一頁』のプロジェクトが始まった。(詳細については本人が著した『わが映画の青春』に詳しいので、後日あらためて記そう)手弁当同然で集まったスタッフのほとんどは20歳代。言わば青年の意気と野心のみで撮影が薦められた。ちなみにこの時のスタッフには円谷英一(後に特撮の神様と呼ばれる、あの"円谷英二"の本名)もいたという。しかし完成したフィルムはあまりに前衛的すぎ、一部のマニアを除いては映画会社からも観客からも冷遇され、経費の半額も回収する事ができなかった…。


その後、1949年に下加茂撮影所で大火災が起こる。当時のフィルムには可燃性のニトロ・セルロースが使われており、これが自然発火したとされている(映画『ニューシネマ・パラダイス』でも描かれた通り、昔のフィルムはとにかく燃えやすかった)。衣笠が長年にわたって撮り続けてきた時代劇を始めとする無数の作品は全て焼失。『狂った一頁』もこうして映画史から消えることとなった。


だが1971年、75歳の衣笠は京都の自宅で『狂った一頁』のフィルムを発見する。まったくの偶然で、映画会社の倉庫から自宅に持ち帰られていたため、新品同様のロールが残っていたのだ。前述の通り「きわめて燃えやすい」フィルムが、45年間も無事なまま残存していた事はまさに奇蹟。同じ年、このフィルムの特別試写会を目にした脚本担当の川端康成は「今見ても、恥をかかなくてすんでよかった」と衣笠の手をとって喜んだという(川端はこの翌年に自殺)。


近年にわかに再評価の高まる衣笠だが、その晩年は監督として名高かったと言えない。正直「古くさい時代の人」と見なされていたふしもある。本書でも「監督は長い年月やっていれば、一本や二本の成功作はできるだろう。ただそうした作品がでるのが、できれば監督生活の終わりのほうに近ければ近いほど幸せなのである。その意味で衣笠は残念だったというしかない」と述べられている。


とは言え、この『狂った一頁』のように非凡で、それこそ「狂った」作品が一度でも作れたなら、それはそれで「幸せ」な監督生活だったのではないだろうか。アーティストないしクリエイターとして仕事する人間ならば、誰しも人生の中で一度はこういった仕事をするチャンスがあるはずだ。ある瞬間、ある場所に、吸い寄せられるように人材や才能やエネルギーが集まってとてつもない仕事をやらかす。どんなジャンルであれ、歴史とはそうやって作られるものなのかもしれない。