日本の電子音楽

WONO2006-11-02


川崎弘二「日本の電子音楽」(愛育社)


いったんは手に取った本書を638ぺージというブ厚さにたじろいで書店の棚に戻すかどうかでこのジャンルへののめり込み度が問われる踏み絵のような本。っていうか悪いこと言わないから買っておきなさい電子音楽に興味があるならば。後半に収録された、1925年から2005年までに発表された電子音楽作品、および電子音楽についての文章(書籍に限らず、雑誌収録の論文やエッセイまで網羅!)そして日本の電子音楽ディスク一覧という膨大な資料を手に入れておくためだけにでも。圧巻は本書のメインパートを占める電子音楽アーティストたちへの微に入り細を穿ったインタビュー。これまで三人称や伝聞で語られてきた、70年大阪万博を一つのクライマックスとする「時流」としての日本の電子音楽黎明期の様子が、当人たちのナマ声として語られる、その一時資料としての価値を強調しておきたい。このジャンルには『電子音楽 in JAPAN』というこれまた必携の名著があるが、そちらはポピュラー音楽まで含めた文化史/技術史といった包括的な内容なのに対し、本書はいわゆるゴリゴリの現代音楽にフォーカスを絞っているところが特徴だ。




…なんて話は当方も既にさんざんあちこちで聞いたり読んだりしてきたので、ここでは個人的なことを書こう。書店でたまたま目にした本書をパラパラめくっていて思わず「あ」と目が止まったのは、インタビューされている作曲家の1人「住谷智」という名前だった。


住谷さんは、当方の大学院時代の指導教官なのである。指導教官と言ってもいわゆる作曲術や理論について何かを詳しく教わったという印象はほとんどない。研究室でお茶を飲みながら作品のテープを聴かせて「まあ、いいんじゃないですか。この調子で続けて」などとあたりさわりのない激励を受けたような、うっすらとした記憶があるぐらいだ。学生の当方にも常に敬語を使うぐらいで、何しろ温厚な人だったが、学内ではちょっと変わりもの扱いされていたような気がする。


なにせ口を開くと「トポロジー」とか「スペクトラム」とか、ピアノや声楽といった他の教官と全く互換性のない語彙ばかりなわけで。今なら「ああ、立体音響ね」の一言で通じる話題でも、「いったいあの先生なにを考えておるのか」と変人扱いされる時代だったのです。作品も主に海外で発表していたし、日本国内でジャーナリスティックな脚光を浴びることはあまりなかったのではないだろうか。


埼玉まで電車を乗り継いで、住谷先生の自宅アトリエにおじゃましたこともある。バカでかいスピーカーがところせましと積み上げられたその部屋で、彼は「あらゆる電子音楽の音はスピーカーから出るわけですから、スピーカーを作るところから始めなくてはいけません」と語っていた。(そういえば多摩美術大学に赴任したとき、久保田晃弘教授が学生たちにスピーカーを自作させているのをみて、真っ先に思い出したのはこのことだ)


しかし当方が最も恩恵を受けたのは、先生が校舎内に設立したスタジオだった。「東京学芸大学工学センター電子音楽スタジオ」というインテリジェントな名前のわりには、ずいぶん雑然としてアナログな部屋だった。どう接続して良いのかわからない巨大なスピーカーユニットとかアナログテープデッキとかがゴロゴロ転がっていて、いま考えると宝の山だったかもしれない。


もっとも、音響音楽よりはテクノポップにハマっていた当時の当方としては、それよりも市場に出まわり始めたばかりのサンプラーだのデジタル・ディレイだのといった「ポップ寄り」の機材がいくつかあったのが嬉しかった。授業はさぼりがちだったが学校にはよく行っていたので、だいたいピアノ室に閉じこもって五線譜を書き散らかすか、この部屋に閉じこもってステップ数の少ない当時のシーケンサーで容量制限と闘いながらカセットマルチトラックレコーダに録音を試みるか、といった毎日。


五線譜の方は曲がりなりにも現代音楽の賞をいただくという形で、またスタジオでの作業はコンピュータ音楽制作の仕事を得るという形で、それぞれ結果的には実を結んだのだが、それはずいぶん先の話。どうやったら「世に出られる」のか見当もつかないまま悶々と音楽をつくり続けていたあの頃の気分は、本当に重苦しいものとして今でもリアルに思い出すことができる。


ま、しかし卒業後は年賀状1枚出してない不肖の弟子のことなど忘れているにきまってると思っていたが、本文で当時「熱心に作曲・制作していた学生」として何人か名前を挙げられている中に当方の名前もあったのには、ちょっと驚いた。カタカナの「ヲノサトル」で書かれているところをみると、当時の事をおぼえていてくださっただけでなく、その後音楽の仕事をしていることもご存知だったのだろうか。いま当方が作っているポップスとも実験音楽ともつかないような音楽を聴いたら何と言うだろうなあ。などと思いながら何気なくプロフィールをみたが、先生は3年前に亡くなっていた。