ビデオのアート

WONO2006-10-08



『さよならナム・ジュン・パイク展』が明日で終わりであることに気づき、息子を連れて、散歩がてらワタリウムへ。


親切な受付の方にベビーカーを預け、息子をかついで場内を一巡する。『キャンドルTV』(上の写真)や『TVガーデン』といったビデオアートの名作たち。その実物が無造作に並べられた場内は、最終日前日の日曜日ということもあってか大変な混雑で、子連れにはちと辛いものがあるが、なんとかひと通り鑑賞できた。かつてリアルタイムにTVで眺めた、懐かしの『グッド・モーニング、ミスター・オーウェル』なんかも上映されてたりして、全体に「Back to 80's!」という印象。


そう。パイクの芸歴は60年代から21世紀まで長きにわたるのだが、当方の中ではなぜか「80年代」というイメージなのだ。メディアで盛んに紹介され始めた時代。というかビデオアートというジャンルが活性化し始めたのが80年代、ということもあるのだろう。


80年代が「ビデオの時代」であったのは、もちろんアートの世界だけの話ではない。81年にMTVが開局し、84年からは日本でも『ザ・ポッパーズMTV』なんて番組が始まる。カルチャークラブだデュランデュランだフランキーゴーズトゥハリウッドだと、ビデオ映えを意識したバンドがガンガン売れ始める。「番組」ではなく「ビデオ」のためにTV画面を見つめるという、それまでになかった習慣が根づいたのが、この時期だ。


ちなみにレンタルビデオというシステムが発展したのは、1980年に三鷹に"黎紅堂"というレンタルレコード店が誕生して「ソフトをレンタルする」という業態が定着してからのことだから、まさに80年代のできごと。ちなみに現在の最大手チェーン"TSUTAYA"も、元をたどれば82年に大阪にできたレンタルレコード喫茶“LOFT”(正確には、その後できたその姉妹店"蔦屋書店")が始まりだという。


また、当時あちこちにできた「カフェバー」には、BOSEの宙吊りスピーカーやビリヤード台と共に必ずやTVモニターがセットされ、流しっぱなしの音楽ビデオを適当に眺めながらラムコークやカンパリソーダを飲むのが「オシャレ」とされたものだ。いや実際そんなことしてました当方も(笑)


要するに「ビデオ」という意匠が付加価値となった時代だ。ミュージシャンはこぞって「AVライヴ」ってのを演ってた。今じゃ巨大スクリーンへのプロジェクションが当たり前だが、当時はブラウン管ディスプレイをステージに積み上げて映像を流してたんです(…と書いてても、うーん80年代って感じ…)


そんなことはどうでもいいが。70年代まではブラウン管受像機もTV番組もひっくるめて大ざっぱに「テレビ」と呼ばれてたものが、あの「箱」は単なるハードウェアであり、ソフトウェアには「テレビ番組」以外にも「ビデオコンテンツ」がある、というふうに、分離して意識されるようになっていったのが80年代だった、とは言えるだろう。


で、パイクの作品を眺めると、この「分離」を意識して行ってきたように思える。作品のほとんどは一見ものすごく単純に見え、長い時間かけて眺めてもやっぱりものすごくド単純で、ほとんど子どものいたずらか冗談にしか見えなかったりする。モニターの前に水槽を置いて「TVフィッシュ」とか。庭を作って木にTV吊るして「TVガーデン」とか。TVの箱からブラウン管とっぱずして、中にろうそく立てて「TVキャンドル」とか。


おいおい。お笑いですか。とツッコミたくなるほとんど瞬間芸のセンスだ。そこが強い。パッカーンと後頭部を金だらいで叩くようなこのシンプルな強さによって初めて、ああそうか、TVってただの箱なんだな。リアルな映像だと思って感情移入して観てたのは、単なる電波の模様だったんだな。と気づくことができたんじゃないだろうか、我々は。


つまりパイクの作品とは、まずは「ビデオについてのアート」なのだ。


「ビデオアート」というと「ビデオを使った映像作品」みたいに思われがちだが、そしてそういう作品もたくさんあるのだが、「ビデオによるアート」と「ビデオについてのアート」の違いについては、意識しておくべきだろう。


こんにち現代アートの展覧会に出かけると実に多くのビデオ作品を見かけるが、「ビデオについてのアート」はあんがい少ない。「ビデオ・インスタレーション」と銘打っていても、そのほとんどは要するにビデオ映像を上映する緻密に構築されたシステムなのであり、そこで流されるものが「ビデオ」であっても「DVD」であっても「ムービーファイル」であっても、実のところ本質的な差はなかったりする。


もちろん、そうした「ビデオ上映」作品の意義はよくわかる。TVモニターの機種によって再生される映像がどれほど変わるかは誰しも知っていることだろう。明暗、色調、コントラスト、シャープネス、音量、音質… 極端に言えば同じ機種でさえ、完璧に同じ条件での再生など不可能だ。同じ作品でも観客が自宅のTVで観れば全く違う表現になってしまう。作家が自分の観てほしいとおり「完璧な」映像を観てもらうとしたら、作家自身が上映環境をつくって提供するほかないのだ。


それは「映像のライヴ」と言っても良い。先日『filmachine』 展について書いたように、演奏者が存在するしないにかかわらず、積極的に特定の環境を設営して鑑賞者を一定時間拘束し作品を体験させるのが「ライヴ」だとすれば、インスタレーションによるビデオの上映もまた一種の「ライヴ」として、存在意義があると言えるだろう。


パイクが「木に吊るされたTVで映像をみる」などという、それこそ自宅などではできっこない極端な形で、そうした意味でのライヴ=「映像インスタレーション」という展示方法を"発明"したのは確かだ。しかし彼の面白いところは、同時にそれが常に「映像についての疑問符」になっていたところだろう。「ビデオとは何なのか」「映像とは何なのか」「なぜ人は映像をみるのか」という疑問符の、極端に馬鹿馬鹿しい方法での提示。


その究極は、世界中を衛星でつないで、それぞれは全く無関係な映像を脱ジャンル脱スタイル的にリアルタイム・リミックスしていく『グッド・モーニング、ミスター・オーウェル』や『バイバイ、キップリング』のようなサテライト・アート作品だ。ジャンルやスタイルとまったく関係なく無秩序に無作為に次々リミックスされる世界中の映像。そこに流れるアナーキーな空気は、今日"YOU TUBE"などでアクセスできる無数の匿名映像の氾濫に近いものがある。


現場に行かなければ味わえないサイト・スペシフィックで極上なライヴ体験としての「映像インスタレーション」。その対極にある、ネットを通じて溢れかえるポッド・キャスティングやYOU TUBEのような「画質や再生の厳密さには全然こだわらない鮮度重視のプチ映像」たち。(この構図は、高精度のPAや立体音響によるライヴコンサートが人気を博する一方で、劣悪な音質でも良いから携帯プレイヤーやダウンロードファイルで手っ取り早く大量の「音楽」を消費しまくるリスナーが多数派となりつつある、音楽メディアの現状とそっくりだ)パイクが提示した「ビデオアート」は、最初からその両方を射程におさめていた。






なんてことを考えていたのだが、息子のお気に入りは『フレンチ・クロック』。カッチコッチと動く振り子時計と馬の造作が子ども心をひきつけたようで、飽きずに眺めていた。やっぱ「映像」よりも動く「物体」の方がおもしろいってか…