アワーミュージック

WONO2006-06-11



(映画評、ではなくて書評)


家庭の事情とはいえ、劇場上映を観に行くことができなかったのがこれほど悔やまれる作品もない。座席に深々と身を沈める至福の時間の中で暗闇に目をこらし沈黙に耳をそばだてながら他の一切を忘れて没頭するべきこの映画の鑑賞の場として、しかし、大阪からの上り最終新幹線車内というのも、ある種の終末的な疲労感漂う匿名的群衆空間として悪くなかった、と負け惜しみぐらい言っておこう。驚異の性能で周囲の騒音をシャットアウトし優れたスタジオモニターなみの音質で鼓膜を震わせてくれるSHUREカナル型イヤホンE3Cに感謝、である。


そんなことはともかく。観る者の数だけ言説が成立する、ほとんど万華鏡のような構成要素の多重的な豊かさ。これこそは、デビュー作から一貫したゴダール作品の魅力であり、それゆえに誰もがゴダールについて語りたくなるものなのだ。という事実の、これまで天文学的な回数くりかえされてきた証明の最新の一つが、映画『アワー・ミュージック』DVDに添付された、このブックレット。


というかこのDVD、"付録DVDつきのゴダール本"にしか見えないよね(笑)


ブックレットの文中でも触れられている「一見豪華絢爛なハリウッド映画の貧しさと一見簡素なゴダール映画の豊穣さの違い」を快楽と捉えるか退屈と捉えるかで、この監督に対する観客の評価はまっぷたつに別れてきた。(当方などは『なるほど豊穣だ!』とつぶやきながら上映の間じゅう居眠りし続けるという最も世俗的な"評価"を加えてきた口だが…)


それは、たとえば、ドラマティックなサウンドメイキングとメロディ展開の"豪華絢爛"なポップミュージック(たとえばマドンナの、いつの時代でも良いがそのときどきの最新作のような)と、"一見簡素"で沈黙と静けさに囲まれたある種の実験音楽(たとえばジョン・ケージの、いつの時代でも良いがそのときどきの最新作のような)のどちらを"豊穣"と捉えるかという違いのようなもの。"感覚"の違い、"知識"の違いというよりも、これは"立ち位置"の違いだ。


それなのに本作は、言わば実験音楽の"実験性"をどんどん深めていった結果、くるりと反転して逆になんともポップな地点に着地してしまったような、実に"わかりやすい"美しさを持ってしまった。「"サウンドアート"だと思って展覧会場に行ったら、ちゃんとメロディも歌詞もある音楽が流れてきた」というような。どんな立ち位置からみても認めざるをえないような。


そうした"わかりやすさ"への新鮮な驚きとときめきを執筆陣の誰もが興奮しながら表明しているところが本書最大の魅力。恋する者のエネルギー爆裂!という感じで、誰しも息がはずんでいるのが楽しい。


もちろん語り口は多彩。青山真治×阿部和重×中原昌也鼎談や(いつもながら、こういう場における中原くんの、斜め45度に入るツッコミのセンスほんと最高!)青山真治×菊地成孔対談の抱腹絶倒かつ強力なドライヴ感は、一本の映画について一晩中語り明かしたことのある全てのシネフィルのみならず、単に面白い話ノリの良い会話が大好きな対談オタクをも満足させること確実。


また、彼らの過剰な「映画探偵」ぶりについていけないリスナー、いや読者には、生ゴダールの記者会見に呼ばれなかったとムッとしてみせる(笑)黒沢清監督とサエキけんぞう氏のフツーにわかりやすいトークも楽しいだろう(デビュー作『ドレミファ娘の血は騒ぐ』であからさまにゴダールスラップスティック面を模倣してみせた黒沢監督と、ソニマージュ以降の"沈黙とノイズ"なゴダールをフォローしてみせる青山監督の、両極端なゴダール解釈には、ヌーヴェルヴァーグにおけるトリュフォーゴダールの両極性に近いものを感じるが、その話はまたいずれ…)。


シンプルかつクリアに「サイド・バイ・サイド(横に並んで座る)」という視点からこの映画を解読してみせる浅田彰と、例によってとろけるような文体で「映画のユダヤ人」になりたがるゴダールについて論ずる蓮実重彦の、フォントで言えば「ゴシック体」と「明朝体」のように対照的な(それこそ"切り返しショット"のような…)文章も素晴らしい。


当方が圧倒的に面白く感じたのは、小田マサノリの文章。フィールドワークと批評と創作が渾然一体となったような小田さんの活動の過剰な情報量とイメージ喚起力にはひそかに注目し続けているのだが、彼独特の「構造主義芸術人類学トランスカルチャー政治参加型」的な言説が、ゴダールを触媒として存分に炸裂。これでもかと加えられる映像論的かつ政治学的な分析の鋭さにも刮目させられるが、たとえば「弟が生まれたよ」という、ストーリー的には全く唐突だが、映画にとってはどうしても必要なダイアローグに鋭く感応するポエティックな感性こそをたたえたい。


ここで映画についての個人的感想も少々述べておこう。


ショットの連続で時間軸に沿って「意味」を生成するエイゼンシュタイン式の「モンタージュ」が結局は「一つの物語」という権力に収斂していくという映画技法上の事実によって、現実の政治とそこに発生する権力の問題を語る、というこの映画の大枠が、「物語」的な音楽の使い方を避けて音響断片のサンプリング的な併置を多用してきたゴダールのこれまでの「ソニマージュ」と言われるサウンドトラック技法の「解説」になっているところに、感心。そして映画の結末が、そのさらに先を示唆している点に、感動。


従来の「権力としての物語」を避けつつ、しかし「断片の併置」をも超えて、あらためて次の「物語」を語ること。この映画でのゴダールのこうした試みを、たとえば「音響」のあとで再び「音楽」を行なうためのレッスンとして受け止めてみても良いんじゃないだろうか。と自分の問題意識にひきつけて勝手に読みとくことができるのも「万華鏡のような構成要素の多重的な豊かさ」ゆえ。ゴダール最高。