わからない


本日の「映像論」、映画『ラストシーン』を題材に、登場人物の視線のやりとり、クローズアップ切り返しショットの反復によって、感情と関係性の継時的変化を描く手法について解説。


後半は日本映画産業の歴史についてのうんちく話。「東映」が「東京映画」、「日活」が「日本活動写真」、「東宝」が「東京宝塚」を略した名前だなんて事実、意外に知らない人も多いんじゃないかと思って。(知ってました? 知ってたからどうということもないが…)


授業後、1人の学生が質問に来た。


「この映画、わからなかったんですけど…」質問の意味がわからず、思わず「は?」とマヌケに聞き返す東宝。いや当方。学生は「なんていうか、どういう話なのか全然わからなくて頭が痛くなったんですけど…」と、いかにも不満げな顔だ。


確かに筋道立ってオチがつくTVドラマのように説明過剰な作品ではない。25年前と現在の映画業界を対照した設定。幽霊まで出てくる話だし、ま、わかりにくいと言えばわかりにくいかもしれない。それでも「映画的」なおとしどころや泣かせどころはたんまりあって、最後にはきちんとカタルシスが得られる、ハートウォーミングな作品だと思ったのだが。


しかし当方が「わからなかった」のは、なぜこの学生が「わからなかった」かではなく、「わからな」くて何が悪いのか?ということ。俺だってわからない映画なんか山ほどある。いやわかってるつもりでわかってない映画の方が多いかもしれない。というか「わかる」ために映画観るわけじゃないしなあ。


いいじゃんわからなくても。という意味のことを(もちろんもっと丁寧に)答えたけど、どうも釈然としない様子だったなー。そもそも質問には必ず答えがあるんですか?(ICCでの茂木健一郎さんへの高橋悠治さんの問い)と追い打ちをかけたかったけど、それはやめときました…。