吉田健一「酒肴酒」

吉田健一「酒肴酒」


あいかわらずヒマさえあれば酒に関する本を眺めているヲノです。


こないだ、美文家として名高い吉田健一の食に関するエッセイをまとめた文庫本を入手した。読み始めると止まらない。"美文"というより名調子。年季の入った落語家の枕のような文体とでも言おうか。たとえばこんな案配だ。

酒が体に非常に悪いことは説明するまでもない。そう書くと、いかにも説明などすることはないような気が一時はするが、少したつと、何故その必要がないのか解らなくなるから、やはり説明しなければならない。まず第一に、というところまで来て、もう一度よく考えざるを得ないのが、どうして酒がそんなに体に悪いのかという大問題である。別に悪くはないことなど初めから解っているのであるから、これはむずかしい問題で、そこに何とか理屈を付けなければ人に禁酒を勧めることが出来ないことを思うと、全くこれは困ったという感じになって来る。 [中略] 面倒臭いから飲んじまったらどうだろう。
(禁酒のすすめ)


一見生真面目そうな文だが内容はぐにゃぐにゃと階段を登るような降りるような、何を言ってるのか?酔っぱらってんじゃないのアナタ?と後ろから肩に手をかけたくなるような滑稽味がある。ぬるい風呂にのんびり浸かっているような、なんともいえない気持ち良さ。「禁酒のすすめ」と題しておきながら、酒が体に「別に悪くないことなど初めから解っている」と断定するあたり、実にいい。


また、次のような文にうなずかない酒飲みはいないだろう。

酒飲みというのはいつまでも酒を飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かねばならないから止めるなどというのはけっして本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、というのが常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止っていればいいのである。
(酒宴)


「というのが常識で」と勝手に断定しているあたりが痛快だ。そもそも酒を飲むとは自分を麻痺させること。言い換えれば、いっとき自分という地球の自転を止めること。地球が回らなければ月も太陽も昇りも沈みもしない。つまり「世界の動きだの生活の営み」だのは止ってしまう。というこれは実はごくまっとうな事実。酒飲みの主観的には。


多くの人々の説とは反対に、酒は我々を現実から連れ去る代りに、現実に引き戻してくれるのではないかと思う。長い間仕事をしている時、我々の頭は一つのことに集中して、その限りで冴えきっていても、またそのほかに我々を取り巻いているいろいろのことがあるのは忘れられ、その挙句に、ないのも同じことになって、我々が人間である以上、そうしていることにそれ程長く堪えていられるものではない。そういう場合に、酒は我々にやはり我々が人間であって、この地上に他の人間の中で生活していることを思い出させてくれる。
(飲むこと)


現実から逃れるために酒があるのではなく、現実へと帰るために酒がある、というのも斬新な意見。ここまでくると、これはもう酒という生き方。スタイル。「麻薬は快楽の刺激剤ではない、麻薬は生き方なのだ」というバロウズの言葉にも通じるものがあるような気がするではないか。


酒とスタイルと言えば、「ギムレットには早すぎる」という名台詞で有名なハードボイルド小説『長いお別れ』(レイモンド・チャンドラー)には、なかなか粋なスタイルを持った人物が登場する。飲めば飲むほど礼儀正しくなる不思議な酔っぱらい、テリー・レノックス。そういうのって格好良いじゃないか。若い頃は、そんなふうに飲みたいと真剣に思った。(当然、あっさり挫折したけど) ま、しかし、そんな「スタイル」目指しているようじゃ、まだまだ青い青い。吉田健一に言わせれば

理想は、酒ばかり飲んでいる身分になることで、次には酒を飲まなくても飲んでいるのと同じ状態に達することである。
(飲むこと)


ということだ。飲んでもシラフの時と同じようにふるまう、というダンディズムをくるりと反転させ、シラフでも飲んでる時のあのふわふわとした極楽気分でいられるとしたら、それはまさしく「酒仙」の境地。うーんあと何十年したらそんな心境に至れるものやら。


そんなことを考えながら、凡人の当方は無性に一杯やりたくなるのであった。