トライアウトその後(2)


有馬、前林の両氏が渋東の拙宅を訪れ、レクリプ会議。


前回の「トライアウト」は文字通りの「試行」だったわけで、さてこれからどのように活動を展開するべきかという話し合い。ライヴはやる。やるけれど、どういうスタンスでやるのか。レクリプとは何なのか。いやべつに何と決めなくともいいのかもしれないが。無意識を無意識のままかたちにするのは天才に許された特権であり、凡人による言語化の否定は怠惰にすぎない。まして複数の人間があえて集合体として表現を行なおうとするのならば言葉を通じた観念の照合と共通理解は必須。もちろん共通理解とは「わかりあう」という意味ではなく、どこまではわかるがどこからはわからないのかを明らかにする、ということだ。


というわけで、ああでもないこうでもないと話は続く。


音楽の美的意味をどこに設定するかという問題。あらかじめ理想的状態を設定してそこに向かうのか、方法論があって音響はその結果として発生するのか。結果としてそこに鳴りひびく音響そのものを目的とし、それを磨き上げるという方向で「洗練」に向かうなら、生演奏より記録作品を仕上げる方が精度は高いし、3人でやるより1人で美意識を究める方が純度は高いはず。しかし方法論が美しければそこから発生する音響が何でも良いという考え方は、調理法が正しければマズい料理でもかまわないというようなものだ。本末転倒。ではどう考えるか。


「合奏」とはなにかという問題。それぞれが音を出しさえすればその集積が合奏になるのなら、あらかじめ用意したカードを「せーの!」とショーダウンする1発勝負のポーカーみたいなもので、その場での演奏=操作は単なる「振り付け」ということになってしまう。そこには、個人の力量の総和以上のマジックは出現しない。それよりも、どちらかと言えば「モノポリー」のように「ルールを使って"遊ぶ"」という共通の目的は遵守しつつも、様々な策略や取引きや抜け駆けが展開される「闘争」の場として、演奏空間を出現させたいではないか。


楽器についての問題。コンピュータは「楽器」ではない。コンピュータの操作は古い意味での「演奏」ではない。しかしコンピュータを「操作」することによってある種の新しい「演奏」を行なうことができる。コンピュータにこだわるわけではないが、「操作」によってしかできない「演奏」を行なうには、コンピュータが必要だ。ではコンピュータだけに可能性を限定するのか。エフェクター、ミキサー、マイク、入出力インターフェイス、様々な電子的デバイスがコンピュータに接続する時、どこまでをコンピュータと呼ぶのか。ギターや鍵盤のような従来の「楽器」はそこに相容れないものなのか。


議論は尽きないが、それぞれの考えを出し合い、どうやら次回めざすべき方向は見えてきた。ま、どんどんやろうではないか。1戦目の不首尾は、戦術を変えた2戦目でとりかえす。その2戦目で敗北したら撤退して再び戦術を変える… と局地戦をくりかえしながら、バンドの大きな戦略が確定されていく。それがこの「トライアウト」シーズンの目的なのだから。