立川談志「芝浜」

自宅で出前の寿司などツマみながら家族と年越し。
という、えーと物心ついて以来おそらく最もシブい大晦日でした。


となると、ふだん全然観ないTVを観るのも一興。


まずは「PRIDE 男祭」。周回遅れのレイヴ的な演出に大笑い。しょっぱなから「英国のヘラクレス〜ッ!(お母さん大きく生んでくれてありがとう)」とか「いま、108つのビッグベンが鳴り響く〜ッ!」とかの煽り文句にグッとくる当方は、そうです「おーっと!」「燃える闘魂!」「人間山脈!」と絶叫する古舘伊知郎アナウンサーの『ワールドプロレスリング』をリアルタイムで観ていた世代です。(『筋肉番付』も古舘氏のMCがあってこそおかしかったのに、いつのまにか変わってて残念…)考えてみれば「アストロ球団」が好きなのも「人間ナイアガラ」だの「一試合完全燃焼」だのといった、プロレス的に過剰な言語感覚に惚れてるだけかもしれない。


そんなことはともかく21時からは、楽しみにしてた立川談志の「芝浜」独演。


しかしMXTVも粋なことするね。アップと全身の2カメ切り替えだけで1時間、噺を観せるだけ。という恐ろしく非TV的というか、地味な番組。そこが面白いじゃないですか。


ハリウッド映画には「クリスマス映画」っていう系譜があって(いまテキトーに作った系譜だが)パッと思いつくだけでも「素晴らしき哉、人生!」「アパートの鍵貸します」「恋におちて」「34丁目の奇跡」「ホームアローン」「ダイ・ハード」「さらば友よ」(これはフランス映画だけど、ブロンソンが出てる以上、『レッド・サン』と同じ程度にハリウッド映画なのだ当方の中では)とまあ、どれも「おいおい、とツッコミたくなるぐらい予定調和だけど、ま予定調和もいっかクリスマスぐらいは。安心して涙腺ゆるめさせてもらいます」といった風情の、良く言えばハートウォーミング、悪く言えば甘っちょろいハッピーエンド映画ばかりなわけだ(『さらば友よ』も、ストーリーがどうとか言う問題ではなく、アラン・ドロンブロンソンが友情を結ぶというだけでハッピーエンドなのだ当方の中では)


要するに年末ってのは洋の東西を問わず、ストーリーの矛盾がどうしたの演出過剰だのと固いこと言わずにさ、頭からっぽにしてシミジミしちまおうじゃないの!号泣の一つもしちゃおうじゃないの!というメンタリティが漂う季節なのである。


で「芝浜」ってのは、そういう意味で実に「クリスマス映画」的な人情噺なのだ。

ストーリー
http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2004/12/post_16.html


固定カメラで良かった。落語ってのは音声つきのパントマイムなのだと常々思っていたが、固定カメラのフレームで観るとそれが良くわかる。手の動かし方、上体の傾け方、話す時のシワの寄せ方、といった微細な所作による、上半身だけのパントマイム。スタンダップ・コメディが全身の跳躍を基本とする西洋バレエから派生したものだとすれば、落語における運動性とは、上半身と両手の表情だけで踊る、田楽からパラパラまで一貫した日本的=東アジア的な“手踊り”の話芸的解釈だと言ったら過言だろうか。(もちろん過言である)


しかしシワで芸ができるから年寄りってのはいいなと思う。だいいち、顔中シワになったら男も女も造作はそんなに変わらないわけで、ちょっとした所作次第で、演者の顔はかんたんに男にも女にも見えてくる。芸人は年とってナンボって本当だね。


ま個人的好みで言わせてもらえば、デフォルメと盛り上げ方があざとすぎて、あまり「粋」という感じではなかったが、それで良いのだ。クリスマス映画なんだから。ストーリーはわかっているわけだから、ねっちりじっとり引っ張って引っ張って、最後の「また夢になるといけねぇ」までどう持っていくか、そこが面白いわけで。わかっているのに、この一言でブワーッと涙が出てきちゃう。それを楽しみたいのだこちらは。


で、今夜の談志師匠、シワと視線と間の取り方だけを使って「思いは万感胸に去来するけれど、言葉には出せない、あえて言葉に出さないでる」という表情とを、見事に演じてくれました(という意味では、最初に“非TV的”って書いたけど、これってむしろTVならではの演芸だと後から思った。ラジオじゃ単なる放送事故だものな)。


しかし、この噺。明日の家賃を払えないほど貧窮したことがなければ、拾った金を使わず亭主のためにあえて隠すおかみさんの血を吐くような辛さも、一度は怒りかけるがその辛さを想像してむしろ感謝する亭主の気持ちも、心底から共感することはできないのではないか。また、酒が本当に好きで好きでたまらなくて止めるのがどれだけ辛いかわかる人間でなければ、3年間断っていた酒を「今夜ぐらいお飲みよ」と進められた時に「いや、止めとこう」とヤセ我慢してみせる亭主の心意気が、単なるオチのための洒落た台詞にしか聞こえないのではないか。


「落語は人間の業の肯定である」というのが談志師匠の持論らしいが、確かに、落語ってのは業の深い人間ほど楽しめる、というか味わい深く感じられる世界なのだなあ、と思った次第である。







そんなわけで、業を肯定するためにも当方は年が明けるまで大いに飲み続けるのであった(笑)