打てば響く


先輩作曲家の久保禎さんの御招待で、洗足学園音大(というから洗足池の辺りにあるかと思ったら溝の口だった。学芸大が小金井にあるってのも知らない人は多いのではないか?どうでもいいけど)にて「現代の音楽展『打楽器フェスタ』」を観覧。打楽器の新作6曲を2時間聴き続けるという、打楽器マニアには垂涎、フツーにメロディのある音楽しか聴かない方には苦行のような体験(憶測)を、しかし当方としてはかなり楽しませていただいた。


ふつうのオーケストレーション管弦楽法)の基本は、音を「線」のように保持しながらその高さや強さや音色を変化させ、他の楽器と重ね合わせて「面」を構成していくこと。言わば油彩絵画を時間軸上に書いていくようなものだ。


しかし打楽器とは文字通り「打って音を出す」楽器。すなわちシンセサイザ風に言うとアタックとリリースだけの楽器である。ということは打楽器音楽の最大の面白さは、「線」や「面」ではなく、アタックという「点」が時間軸の中にどう配置されていくかの「構成」や、それによって形づくられる楽曲全体の「構造」が、他の楽器の場合よりも極端に示されるところにあるのではないか。


そう考えれば、たとえばナンカロウがロールピアノに穴を開けて緻密な音楽をプログラムしていったように、様々な音高が予想を超えたタイミングとリズムで次々に鳴らされていくスリリングな音像があっても良い。あるいは、ケージがプリペアドピアノで実現したように、全く脈絡のない音色をサンプリング・コラージュ的に並べ、なおかつ一連の音群としてきっちりコントロールして、聴き手のド肝を抜くという手もあるだろう。


全く別のアプローチとしては、一音のアタックとリリースから多様な音響を取り出し展開する言わばスペクトル楽派的な方法もあるかもしれない。要するに、電子音楽の黎明期からテクノを経て音響派まで約60年続いている「テクノロジカル・サウンドスケープ」((c)佐々木敦)の成果を最も直接的に展開する可能性のある「生楽器」として、打楽器はかなり有効なのではないか。


ちなみに久保さんの作品は2人の小太鼓奏者のための曲。歌舞伎の下座音楽や落語の拍子木のようにバックステージから鳴り響くスネアドラムで始まり、マーチングのように演奏しながら入場の後、2人が熾烈なスネア・バトルを繰り広げるという趣向。津軽三味線乱れ弾き…みたいなスポーツ的快感。音高を変えられず余韻も短いスネアドラムという「点」的な楽器に素材を限定することで、逆に微細な音色や音量の変化に観客の耳が向くよう計画されていた。音程変化はほとんどないはずなのに、止まらず続く激しいスネアの連打を聴いているうち、その中にメロディやハーモニーが聴こえてくるような気すらしてくるのが面白い。ある種、オプ・アートのような感覚。


ともあれ、いつだって重要なのは「自分だったらどうつくるか」ということだ。宿題をもらった気分で帰宅。