アーバン・トライバル・スタディーズ
たとえたったひとりが孤独に踊り続けていても、つねにダンスは他のクラウドの身体に呼応しているし、他者の身体と共にある。踊ることは身体を通して自分自身に、また他者やクラウドに語りかけることなのである。
アーバン・トライバル・スタディーズ ― パーティ、クラブ文化の社会学
上野 俊哉, 月曜社, 2005年
レイヴ、それも主にサイケデリック・トランスのギャザリングを主題に、カルチュラル・スタディーズの手法でその社会的意味を分析考察した理論書。
……と書いたのでは本書の魅力は全く伝わるまい。社会学者でありつつトラヴェラー、DJ、アクティヴィストとして実際に世界中の「現場」に参加し続ける著者が、踊りながら考え、考えながら踊る、そのプロセス自体を文章化したような、パワフルな一冊だ。(サブタイトルは、微妙に"軸"がズレているような気もするが…)
とは言え、社会学/思想的な用語や文献の参照も幅広く多数で、丹念に迂回しつつ論理を進めていく本書は、決して「読みやすい」本ではない。ベンヤミン的な「現実の複雑さ、出来事やテキストの不可解さにぶつかったさい、簡単に通り過ぎてしまわないで、ぎくしゃくと突っかかりながら、いっそう読者が迷っていくような文体と思考」(p.11)という戦略で、本書はレイヴというアンダーグラウンドかつ(音楽的に)ポップな現象を解読していく。
趣味、感覚、スタイル、つまりはカルチャーを共有する集団を「トライブ(部族)」と定義する時、めまぐるしく変容し重なり合いながら様々なトライブが出現するメディア空間として「都市」の新しい姿が立ち上がってくる。あるいは都市(というよりもストリート、と呼ぶ方がリアルかもしれない)を浮遊するメディア・トライブとでも呼ぶべき新しい社会単位の枠組みが視えてくる… 著者の提唱する「アーバン・トライバル・スタディーズ」(都市の部族研究)は、まずこうした前提から出発する。本書が対象とするのは、言ってみれば「踊るトライヴ」だ。
第1章のそうした定義に続いて、先行文献や他分野を参照しながら研究手法や立ち位置を仔細に検討する第2章。社会・群衆・空間…と視点を浮遊させつつ、ダンスするクラウドの情動や思考を言語化していく第3章。都市のリズム、トランスミュージックにおける文化帝国主義の克服、DJとしての著者の経験談…と次第に話がストリートレベルの現実に降りてくる第4章。そして第5章で描かれるのはニューエイジ・トラヴェラー出現の背景と、こうしたトライヴを敵視し封じ込めようとする大衆および権力の姿。
こうして本書がたどり着く結末は、地元(ネイティヴ)とトライヴが出会う場所=「一時的自律接触領域」となり得る野外パーティは、日常の中の「展覧会」や「祭」となっていくのではないか…というポジティヴな観測だ。ここには、クールな観察者としてだけでなく、著者自らもトライヴとしてこのフィールドに参与し続けるがゆえの、希望と意志が大いに反映されているように思われる。さらにリアルな体験記、たとえば清野栄一『レイヴ・トラヴェラー 踊る旅人』などと併読するのも面白いだろう。
序文
第1章 アーバン・トライブとは何か?
グローバリゼーションとトライバリゼーションの往還の地平)
第2章 トランス・クリティックとしての民族誌
今日のシャーマニズム
トランス・クリティックとエスノグラフィ
第3章 ディオニュソス・グラフティ
ディオニュソス・グラフティ
逃走と飛び地
群衆と空間
第4章 学び逸れる野郎ども
リズム・ダンス・ミメーシス
学び/まねび逸れる野郎ども
第5章 一時的自律接触領域
ニューエイジ・トラヴェラー
トライバル・ウォリアーズ、あるいは「新しい野蛮人」?
接触領域(コンタクト・ゾーン)としてのパーティ
いくつかのシーンとTJという立場について あとがきにかえて
謝辞
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