ニグロ、ダンス、抵抗
売りたし、
肢体美麗なニグロ男性1名、
年齢16歳程度、
召使として良し、
素直で従順、
フランス語を話し、
高度なダンス含めあらゆるダンス可。
ー 18世紀の新聞広告より ー
ニグロ、ダンス、抵抗 17~19世紀カリブ海地域奴隷制史
ガブリエル・アンチオープ (訳: 石塚道子) 人文書院, 2001
人種差別感情の結果、奴隷制度が生まれたのではない。奴隷という安価な資源によってのみ回転し得る経済システムを成り立たせるため、人種の優劣という幻想がつくられたにすぎない。その象徴が「ニグロ」という呼称だ。
いかに多様な地域や様々な民族の出自であろうと、ひとたび奴隷船に乗せられたなら国籍は抹消され、単なる商品としての黒人=「ニグロ」と見なされる。そうした状況の中で、ダンスこそは奴隷たちがアイデンティティを再構築し、維持していくために必要不可欠な、癒しと抵抗の身体空間となっていった。
本書は、様々な古文書や手記、新聞記事、聞き書きなどの稀少な資料を丹念に捜査し、これまで曖昧なイメージでしか語られてこなかったカリブ地域の奴隷制社会を、支配者と奴隷の双方を含めた一種の動的な経済=文化システムとしてリアルに描き出している。
序論
第1部 カリブ海地域のエスニックな構成要素
第1章 カリブ人
1 ヨーロッパ、征服とジェノサイド
2 カリブ黒人
3 「インディアン」のダンス、音楽ー否定的なイメージの必要性
第2章 ヨーロッパ系人
1 始まり ー契約的移民「アンガジェ」
2 女性たち
第3章 アフリカ系人
1 誘拐
2 エスニックな起源
3 エスニシティと文化
第2部 ヨーロッパと植民地、そして「奴隷像」の形成
第1章 ヨーロッパ人と黒人
1 神話の終焉
2 黒人の「ニグロ化」
3 肌の色、ひとつの難問
4 19世紀、人種差別主義の絶頂期
5 本国、本国人と黒人
第2章 植民地、「黒人」か「ニグロ」か
1 ニグロとは何者か
2 ニグロの「負」の評価とその必要性
3 ニグロ女性
4 ニグロとセクシャリティ
5 ニグロという表象の過去と現在
第3章 ニグロのダンスのイメージ
1 画像の影響力
2 ニグロ、音楽狂
3 ニグロ、「ダンス狂」
4 年代誌家たちの言説とニグロのダンス
5 ニグロのダンスについての現代の認識
第3部 カリブ海地域の奴隷制社会
第1章 「人種」的混淆
1 女性人口の欠乏か道徳的退廃か
2 性と権力
3 白人女性とニグロ男性
4 混淆婚、法、制裁
5 カリブ海地域人口の遺伝学的種族名称
第2章 社会的分化と社会的緊張
1 肌の色ー分類用語
2 植民者、白人、ヨーロッパ人
3 非白人の自由民
4 ニグロ
第3章 体制の錯乱
1 プランテーション
2 処罰
3 文化的抑圧と弾圧ー禁じられた人々
第4部 奴隷とダンス
第1章 奴隷の生きられた空間におけるダンス
1 演奏者・踊り手としてのニグロ
2 ダンスとその経済効果
3 娯楽としてのダンス
4 ダンスと社会統制
5 ダンスー再創造と創造
6 ダンスと奴隷制主義者の言説
第2章 抵抗としてのダンス
1 研究者の視点と奴隷の抵抗
2 受動的抵抗と能動的抵抗
3 奴隷の抵抗、自由、罰
4 逃亡奴隷の数
5 逃亡と共謀者
6 隷属階級における逃亡の全体像
7 多様な抵抗の形態
8 ダンスーもうひとつの逃亡のかたち
終論
既に紹介した『ティ・フォー・トゥー物語』や『アメリカ音楽の誕生』の中でも「奴隷のダンス」については触れられていたが、本書ではその起源や流行について、さらに詳しい情報が得られる。
当時、支配階級であった少数の白人たちは、人数では圧倒的多勢となるニグロ奴隷たちの抵抗や叛乱を何よりも恐れていた。(たとえば18世紀のサン=ドマング島では3万5千人の白人が50万人の奴隷を支配していた)「気晴らしする民衆は陰謀を企てない」(p.177)と考えた彼らは「もっとも優秀で規律正しいニグロは、規則的にダンスをしている者である」(同)とし、公認のダンスという娯楽を与えることで、言わばガス抜きをはかった。
確かに、奴隷にとってのダンスは祝祭にほかならない。それは過酷な強制労働という日常の時間を切断し、現実からの逃避を可能にする娯楽であり、気晴らしであり、新鮮な空気穴であった。白人には信じがたい疲れ知らずのエネルギーと情熱をもって、彼らは一晩じゅう踊り続けたという。
また白人たちにとってもダンスは祝祭であった。なにしろ農園主たちの生活は実に単調なものだった。そのうえ彼らにはヨーロッパへの帰還願望やコンプレックスが強かったため、いわゆる宮廷ふうの舞踏会がたびたび催された。
そこでは、たとえば黒人奴隷が完璧なマナーでヨーロッパふうの宮廷ダンスを踊るといった倒錯的な光景もみられたという。ダンスに長けた奴隷は注目を浴び、パフォーマーやダンス教師として活躍できた。そうした奴隷を抱えていることは農園主にとっても、名声と副収入というメリットをもたらしたのだ。
だが同時に、こうした支配者のコントロールを逸脱して、定められた日以外に祭や会合の名目で奴隷が集まって踊ったり騒いだりすることは、死刑に値するほどの重罪とされた。白人の目のとどかないところで行われる集会は、サボタージュや逃亡や叛乱につながる不穏な運動と考えられたのだ。ダンスを許可するのはあくまでも農園主の「温情」だった。
実際のところ、集合し、ダンスし、トランスする集団は、もはや「群衆でも大衆でもなく、集団としての明晰さを備えた活動グループとなり、共同の行動へ向かって進んでいく」(p.236)存在なのだ。そこでのダンスは、支配者との駆け引きによって得られるちっぽけな「制限つきの娯楽」などではなく、異議申し立てや反逆といった大義ある政治行動と同義語になる。
いかに禁止され、厳罰が課されようと、夜の闇にまぎれて農園を脱出し他の連中と合流して、非合法のダンスに熱中する奴隷はあとをたたなかった。彼らが匿名のニグロから本来の自分へとつかのま「逃亡」を果たすことができる場所、それがダンス空間だったからにほかならない。