歌舞伎と江戸の音

WONO2008-01-07



夜、妻と歌舞伎座へ。初春大歌舞伎だ。


松竹梅をモチーフにした舞踊の『鶴寿千歳』、松の緑に紅白の鬘が目に鮮やかな『連獅子』、そして花魁たちの衣装をこれでもかと見せびらかす『助六由縁江戸桜』と、ビジュアル的にも絢爛豪華でまさに正月らしく目出たい演目が並ぶ。


とりわけ『連獅子』での松本幸四郎染五郎親子の競演には釘付け。なにしろダンサーとして超一流の印象を受けた。一朝一夕では到底身につくものではない「型」の美しさと、型を内側から破るエネルギーのバランスの良さ。伝統芸能ならではの凄み。


それにしても歌舞伎の音楽は面白い。雅楽能楽に比べてはるかに猥雑というかロック的なエネルギーに満ちている。また楽団自体が、オーケストラのようなコンダクションによって統率される組織になっていないところも魅力だ。


同時多発的に生起するメロディやビートが、たまたま重なり合わさったところ、結果として全体のサウンドが生まれていくような印象。つまりはヘテロフォニーなのだが、あらかじめ「楽曲」という概念があってそれをヘテロフォニーによって実現する…と目的論的に分析しようとすると見逃してしまうような何かが、そこにある気がする。


気になったので帰宅後、田中優子さんの『江戸の音』を引っぱり出して読み返してみた。


これはひとことで言えば、江戸時代の世俗音楽=ポップミュージックを軸に、日本人の音楽=音響的美意識について論考している本だ。たとえば次のような記述がある。

この三味線音楽は同じことのくりかえしでできているようでいて、少しずつ変わっており、それに従って前に進んでいる気でいると、いつの間にか元に戻っていているす。…これは表現しているというより、何かを示唆するだけで満足している音楽だ吉田秀和の文章からの引用)


結末を目指して構築していくソナタ形式のような西洋音楽の構造とは全くちがった方法論。いや「方法論」化される事を積極的に拒否するような音楽と言って良い。


著者はまた、音楽のみならず連歌連句といった文学の領域でも、同じような感覚がしばしば見受けられると述べている。

まるで繰り返しのようにみえても実は先に進んでいて、先に進んでいるのかなと思うと、どこかに曲がっていたり、その前がどこにあるのかわからない、これからどこに行くのかわからないけれども、とにかく歩いているみたいな歩き方


日本の「物語」の多くは、結末にたどり着くためにエピソードを垂直に積み上げていく西洋式の「物語」と全く違い、エピソードがぽんと投げ出されてはそれが回収されないまま次のエピソードへと水平移動していく。このことは、西洋の言葉は主語-目的語の関係が重要だが、日本語は形容詞が重要、といった言語構造上の違いとも関係するのかもしれない。


この本では後半、武満徹との対談の中で、さらに現代の音楽に通じる様々な論点も出てくる。

遠音(とおね)がいちばん綺麗だという考え方があるわけです。たとえば尺八などはなるべく遠音がいい、遠音を聴く、ということがあるわけです。[略] いちばん面白いのは、遠音の場合には、弱い音とか強い音という、いわゆる西洋音楽にとって非常に大事なダイナミック、フォルテとかピアノというのは、ほとんど意味をなさない。つまり、そこから聞こえてくるのは音色だけなんです(対談における武満の発言)


このように音色/音響を重視する姿勢。


あるいは先に挙げたような、非「構築」的な時間構造。


旋律、和声、リズムの絶対的な対応をあえて避け、ヘテロフォニーや偶発性の導入によって「中心」の発生を回避する音楽組織論。


……等々、どうやら江戸音楽には、我々が直面している音楽の袋小路を突破するヒントが、まだまだありそうだ。